幽霊鉄仮面 横溝正史 [#改ページ] [#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]  目 次   新カチカチ山   乱舞《らんぶ》する大シャンデリア   奇々怪々《ききかいかい》の傷男出現《きずおとこしゆつげん》   恐怖《きようふ》の金庫|部屋《べや》   空中の大活劇《だいかつげき》   ふたり鉄仮面《てつかめん》   百鬼夜行《ひやつきやぎよう》   人間地図   片足《かたあし》の怪老人《かいろうじん》   鉄仮面|遁走《とんそう》   虎狼巣窟《ころうそうくつ》   大宝庫《だいほうこ》 [#改ページ] [#小見出し]  新カチカチ山  世のなかにはときどき、なんとも説明のできないような、ふしぎな事件《じけん》が起こるものである。それはちょうど何十年に一ぺん、あるいは何百年に一ぺんめぐってきて、古代人を恐怖《きようふ》のどん底にたたきこんだあの彗星《すいせい》のように、現代《げんだい》でもどうかすると、ふつうの人の想像《そうぞう》も及《およ》ばないような、へんてこな犯罪《はんざい》事件がひょいと突発《とつぱつ》して、われわれをおびやかすことがある。  わたくしが、これからお話しようとする、この奇怪《きかい》な鉄仮面《てつかめん》の大犯罪というのが、ちょうどそれだった。  いったい、あのぶきみな鉄仮面が、はじめて世のなかに顔を出したのは、いつごろのことであったろうか。わたくしがいまためしに、そのころ書いたノートを調べてみると、それは、ちょうど、昭和×年うららかな春のころにあたっている。  きみたちは、たぶんご存知《ぞんじ》ないかもしれないが、昭和×年といえば、世間がなんとなくざわざわとして、人間がみな一種の狂気《きようき》に取りつかれているような時代だった。あの奇妙な新聞広告が、毎日のように東京の新聞紙上に掲載《けいさい》されて、都民をおどろかしたのは、ちょうどそういうときだったのである。  わたくしはいまでもその切り抜《ぬ》きを持っているが、これは実になんともいいようのないほどふしぎな広告なのだ。いまためしに、それらの広告のなかで、一番最初に現《あらわ》れたやつを、きみたちにお目にかけることにしよう。  それは、日本第一の発行部数をほこる、新日報社《しんにつぽうしや》の四月一日付の朝刊《ちようかん》の広告に、現れたものであった。大きさはちょうど、新聞一ページの四分の一ぐらい。しかも、その図案というのが変わっている。そこには非常《ひじよう》にへたくそな筆で、カチカチ山の絵がかいてあるのである。つまり泥舟《どろぶね》にのった狸《たぬき》が兎《うさぎ》の一撃《いちげき》をくらって、ブクブクと海底に沈《しず》んでいる場面なのだ。  ところがふしぎなことには、その狸のからだが、ほかの部分はまえにもいったように、たいへんへたくそな筆でかいてあるのに、その顔だけが、だれでも知っている、あの有名な人物の写真になっている。そして、それと同じように、カイをふりあげた兎というのが、これはまたなんということだ、奇妙《きみよう》な鉄の仮面《かめん》をかむった怪人物《かいじんぶつ》の顔になっているのだ。  これだけでも、すでにじゅうぶん怪奇といえるだろう。ところがそこにはこの絵をもっと怪奇づけるような、歌だか詩だかわけのわからない次のような文句が書きそえてあるのだった。     狸のお舟は泥《どろ》の舟    ブクブク海に沈んだ   唐沢雷太《からさわらいた》は古狸    いまにお海に沈むだろ    いったいこれはどういう意味なのだ。この広告におけるもんくはただそれだけで、そのほかには一行の説明もない。しかし、この歌が決して気のへんな人のつくった歌でないしょうこには、前にいった狸の顔にはめてある有名な人物というのが、じつに歌のもんくにあるのと同じ、唐沢雷太の写真なのである。  ここでちょっと、唐沢雷太のひととなりを説明しておく必要があるようだ。  日本の宝石王《ほうせきおう》——といえば、おそらくだれひとり知らぬ者はあるまい。それが唐沢雷太なのである。貧《まず》しい生活から身を起こして、大宝石商会の社長となったかれの一生は、さながら立志伝《りつしでん》そのものである。年はすでに五十をこしているのであろう、苦労な一生をすごしてきた人にありがちな、するどいおもかげは、いまだその顔かたちのどこかにのこっているが、ちかごろではすっかり白髪《はくはつ》のおじいさんになりきって、もっぱら社会事業や、慈善《じぜん》事業に力こぶをいれている。——と、そういう人物なのである。  その唐沢雷太がやりだまにあげられたのだから、世間が大さわぎしたのもむりはない。よるとさわると、そのうわさで持ちきり。ある人はこの広告を、何の目的でしたのだろうという。しかしまたほかの人の話によると、この広告には単なる宣伝《せんでん》とは思えないほどのぶきみさがあるという。ひょっとすると、これは、おそろしい犯罪の予告ではあるまいか。『いまにお海に沈むだろ』——という歌のもんくは、近いうちに唐沢雷太を、海底に沈めてころしてしまうぞという、おそろしい警告《けいこく》ではないだろうか。  こうして、世間のさわぎがしだいに大きくなっていくにしたがって、警察《けいさつ》でもほうっておけなくなった。広告主の身もとにたいして厳重《げんじゆう》な捜査《そうさ》の手をのばす一方、唐沢の身のまわりの警戒《けいかい》をおこたらなかったが、そのさいちゅうにとつじょとして、一つの殺人|事件《じけん》がおこったのだ。そして、そこからうらみに燃《も》えたこの鉄仮面《てつかめん》物語の幕《まく》は切って落とされるのである。    さきほこる東京の桜《さくら》が、雨に打たれてチラホラと散っていこうとする四月十五日の夕まぐれ、あかあかと電気のついた新日報社の重役室へ、あたふたとかけこんできたひとりの青年があった。青年の名は折井律太《おりいりつた》といって、新日報社でも腕《うで》ききといわれた記者である。  折井は重役室へかけこんでくると、いきなりそこにいた編集長《へんしゆうちよう》の女|秘書《ひしよ》に声をかけた。 「桑野《くわの》さん、編集長はどこにいますか」 「あらまあ、折井さん、どうなすったの。ひどくせき込《こ》んでいらっしゃるじゃないの」  ガランとした重役室のひとすみで、机《つくえ》に向かって書類の整理をしていた女秘書の桑野|妙子《たえこ》は、相手のようすにびっくりしたような目をあげた。 「そんなことどうでもいいのです。編集長はどこにいるかって聞いているんですよ」 「編集長は、会議室よ」 「会議中か、しかたがないなあ。それじゃ三津木《みつぎ》さんはいないかしら」 「三津木|俊助《しゆんすけ》さん? あの方も会議室」 「おやおや、しかたがないなあ」  折井はガッカリしたように、 「きみ、すまないが、ちょっと会議室へいって見てくれないかねえ。大至急《だいしきゆう》、折井が話すことがありますからって」 「だめよ、会議中はぜったいだれも近づいてはならないという規則《きそく》なんですもの」 「きみ、そんなこといわないで、おねがいだ。大事件なんだ。一分をあらそう大事件——そうだ、ぐずぐずしていると人命にかかわる重大事件なんだぜ」 「まあ、大げさね。でもむりよ、あなただって社の規則はよくご存知《ぞんじ》じゃありませんか」  妙子はもう相手になろうともせずに、せっせと机の上にちらかっている書類の整理にとりかかる。折井はチェッと舌《した》をならすと、わしづかみにした帽子《ぼうし》を椅子《いす》のなかにたたきつけ、いらいらと部屋《へや》のなかを歩きまわっている。妙子はしばらく書類の整理にむちゅうになっていたが、ふとまゆをひそめて、顔をあげると、 「折井さん、あなたもうすこし静かにできないの。わたしいま仕事ちゅうよ。そばでそんなにいらいらしていられちゃ、仕事に手がつかないわよ」 「へん……だ」  折井はわざとにくにくしげに、 「お気のどくさま、これが静かにしていられるかってんだ。ちくしょう!」 「いったい、どういうご用なのよ。人命にかかわる問題だなんて、ずいぶん大げさな方ね」 「ほんとうなんだよ。桑野さん、ぐずぐずしていると、いまにもひとりの人間が殺されるかもしれないんだ。ああ、おそろしい!」  折井はドシンと音を立てて、アームチェアーに腰《こし》をおとしたが、すぐまたハッと立ちあがる。  そのようすが、ただ事ではない。折井という青年は少しそそっかしいところはあるが、決してでたらめをいうような男じゃない。それに新日報社で一番とまでいわれる腕《うで》きき記者の三津木俊助が、弟のようにかわいがっている部下のことだし、妙子もようやくしんけんな顔つきになった。 「まあ、すこし落ちついたらどう。いったい、その事件《じけん》というのはどんなことなの」 「どんなことって? そうだ、きみなら話してもかまわない。三津木さんもいつも、きみのことはほめている。じゅうぶん信頼《しんらい》の出来る人だって」 「あら」  妙子はすこし頬《ほお》をあからめたが、じきさりげなく、 「そんなこと、どうでもいいけれど、その事件というのはなに?」 「じつはね」  と、折井はきゅうに声を落として、 「きみも知っているだろう。あの鉄仮面の事件さ」 「まあ」  妙子は思わずいきをのんで、 「あの鉄仮面がどうかしたの」 「あいつの正体をつかんだんだよ。いや、あのふしぎな新聞広告のぬしを発見したんだ」 「まあ」  妙子はそれを聞くと、思わず手に持った書類をパラリと床《ゆか》の上に落としたが、すぐにあわててそれをひろいながら、 「それ、ほんとうのこと?」 「ほんとうだとも。警察《けいさつ》が必死となって捜索《そうさく》してもわからない、あのへんてこなカチカチ山の新聞広告、あの広告を出した本人をつきとめたんだ。ああ! おそろしい、じつにおそろしい」  折井は思わずガチガチと歯をならしながら、 「桑野さん、こいつは何ともいえぬほどおそろしい事件だぜ。かつてなかったほどの大陰謀《だいいんぼう》だ。ぐずぐずしているといまにひとりの男、いやひとりぐらいじゃない。ふたりも三人も、あるいはもっとたくさんの人間が殺されてしまう。ぼくは今日、その秘密《ひみつ》をつきとめてきたんだ」 「いったい、その広告ぬしというのはだれなの」 「それはいえない。いかに桑野さんでもこればかりはいえない。いや、きみのためを思えばこそいえないのだ。なぜって、この秘密を知るということは、すなわち死を意味するからだ」 「まあ!」  妙子は美しい目を思わずまるくして、 「それじゃ、あなたはどうなの」 「それなんだ、桑野さん、だからぼくはこんなにおそれているんだ。ああ、おそろしい。桑野さん、ぼくはだれかにつけられているんだよ。そいつはおりがあったら、このぼくを殺そうとたくらんでいるんだ」  あまりのことに妙子は思わず相手の顔を見なおした。折井はまるで熱病にでもかかっているようにふるえているのだ。歯をガチガチとならして、土色のひたいにあぶら汗《あせ》がいっぱい浮《う》かんでいる。 「まあ、あなたふるえていらっしゃるのね」 「うん、ふるえている。ぼくはこわいんだ。きみ、笑うなら笑ってもかまわない。だけどね、ぼくがでたらめをいっているとは思わないでくれよ。——ときに会議ってなんだね」 「それがね、やっぱり鉄仮面事件らしいの。世間のさわぎがあまり大きいので、うちの社でも、この秘密《ひみつ》を解決《かいけつ》しようというのでしょう。いまに、三津木さんの、すばらしい活躍《かつやく》が見られるわよ。やがて矢田貝博士《やだがいはかせ》もいらっしゃることになっているの」 「ふうん、矢田貝博士もね」  折井はなんとなく落ちつかぬようすでいったが、きゅうにむっくりとからだを起こすと、 「ねえ、桑野くん、おねがいだから会議室へ、ぼくのことばを通じてくれないか。しかられたら、ぼくが責任《せきにん》をおう」 「そうね」  妙子もようやく相手の熱意にうごかされたらしく、 「それじゃ、ちょっと、いってみましょう。どうせしかられるのはわかっているけれど。あなた、しばらく、ここで待っていてちょうだいね」  美しい妙子がすらりとした身を起こして部屋《へや》を出ていくと、重役室はきゅうに静かになった。  ガランとした広い部屋のなかには電燈《でんとう》ばかりが、いやに明るくて、窓《まど》の外にはようやく夜の闇《やみ》がこくなっていた。折井はしばらく不安そうに、この部屋のなかを歩きまわっていたが、そのうちにふと目をすえて、ドキリと立ち止まる。どこかで口笛を吹《ふ》く音が聞こえたからである。  口笛は窓の外から聞こえるのである。ビル街の騒音《そうおん》にまじって、ヒューヒュンと聞こえてくる口笛の音が、折井の不安をかきたてる。  かれはそっと窓のそばへよって、ガラス戸を開くと下の道路をすかして見た。重役室は三階になっているからである。おりから夜の闇《やみ》につつまれたアスファルトの上には、ひっきりなしに自動車が流れている。別にあやしい人影《ひとかげ》も見えない。折井はようやく安心して、その道路から目をはなすと、ふと、通りのむこうを見た。  道路一つへだてたそのむこうには、いましも建築中の保険《ほけん》会社の鉄骨《てつこつ》が黒々と暗い空にそびえている。その鉄骨の中ほどに赤いカンテラの灯《ひ》がゆらゆらとゆらめいて見えた。 「おや!」  と首をかしげた折井が、何げなく窓《まど》からからだを乗りだしたときである。とつじょブーンと風を切る音が聞こえたかと思うと、ふいに、 「わっ!」  と、悲鳴をあげて窓からうしろにとびのいたのは折井だ。かれはよろよろと二、三歩よろめくようにうしろにひいたが、すぐまた、窓ぎわにかかっているカーテンをひっつかんだ。しかもそれもつかの間で、カーテンをつかんだ腕《うで》が、蛇《へび》のようにはげしくのたうったかと思うと、やがてガックリと床《ゆか》の上にひざをついた。  見ると、これはどうしたというのだ。折井の胸《むね》には、グサリと短刀が一本ささっている、そこからまっ赤な血がドクドクと噴《ふ》き出しているではないか。  折井はしばらく、すすりなくような息をはきながら、床の上をのたうちまわっていたが、やがて力がつきたのであろうか。床の上にからだを丸くしたまま、ガックリと動かなくなってしまった。  重役室のなかは静かである。電燈《でんとう》ばかりがやけにあかるい。ふと外を見れば、そのとき、保険《ほけん》会社の鉄骨《てつこつ》から、スルスルと伝いおりてきた怪人《かいじん》が、いましも、闇《やみ》にまぎれていずこともなく立ち去っていくところだった。  それから二、三分後のこと。いそぎ足で重役室へはいってきた三津木俊助は、ドアのそばで立ち止まると、おやとばかりにうしろを振《ふ》りかえった。 「桑野くん、折井はどこにいるのだね」 「あら」  と、その背《せ》なかごしにのぞきこんだ妙子は、 「どうなすったのでしょう。ここに待っていらっしゃるはずになっていたんですが」 「どうしたのだ、折井くんのすがたが見えないのか」  そういって、これまたいぶかしそうにのぞきこんだのは鮫島《さめじま》編集長。 「ええ、いないのですよ。やっこさん、便所《べんじよ》へでもいったのかな」  と、いくらか不安そうに部屋《へや》のなかへ足をふみ入れた三津木俊助は、ふいにドキリとして立ち止まった。大きなデスクのむこうから、ニューッと二本の足が突《つ》き出しているのだ。 「あっ!」  と、さけんだ俊助は、あわててそばへよると、 「折井だ!」と、床《ゆか》にひざまずいて、折井のからだを抱《だ》きおこす。それと見るより、鮫島編集長と女|秘書《ひしよ》の妙子も、サッと顔色をうしなってかけよった。 「どうしたのだ、怪我《けが》をしたのかね」 「怪我どころか、ごらんなさい、これを。——」  ぐさりと胸《むね》に突きささった短刀を見ると、妙子はまっさおになってふるえあがる。血がまっ赤に床の上をそめて、折井のからだはすでに冷たくなりかかっていた。 「まあ、死、死んでいらっしゃるのね」 「死んでいます。ちくしょうッ!」  俊助はきっと唇《くちびる》をかんで立ちあがると、すぐにドアをひらいて、廊下《ろうか》へとびだした。廊下のはしには受付があって、ボーイがひとりひかえている。 「きみ、きみ」  と、俊助によばれて、ボーイはすぐにかけつけてきた。 「きみ、いまここをだれか通らなかったかね」 「いいえ」と、ボーイは、いぶかしそうに、「桑野さんがこの部屋を出ていかれてから、だれもこの廊下を通った者はありません」 「それはたしかだね、きみ、居眠《いねむ》りをしていたんじゃないかね」 「そんなことはありません。ぼくは目を皿のようにして、あそこにひかえていましたよ」  と、ボーイは、いささかムッとしたらしい。 「もう、いい、きみはあっちへいっていたまえ」  ボーイをひきとらせた三津木俊助は、ふたたび死体のそばへ帰ってくると、胸《むね》にささっている短剣《たんけん》の柄《つか》をしらべていたが、きゅうに立ちあがって窓《まど》を見た。 「桑野さん、きみが部屋《へや》を出ていくときには、この窓はこういうふうにあいていたかね」 「はあ、——あの、いえ、たしかにしまっていました」 「三津木くん、この窓がどうかしたのかね。まさかこの窓から曲者《くせもの》がしのびこんだというわけでもあるまいね」 「いや、曲者はしのびこまなかったけれど、短剣はここから飛びこんできたのです。ごらんなさい、編集長。これはふつうの短剣じゃありませんぜ。柄がアルミニウムでできています。いわゆるアルミニウム短剣というやつで、特殊《とくしゆ》な銃《じゆう》のなかに弾丸《だんがん》がわりにこめてぶっ放すのです。こいつだとふつうの銃とちがって、音がしませんからね」  俊助はきっと窓の外を見ると、 「犯人《はんにん》はおそらく、あの保険《ほけん》会社の鉄骨《てつこつ》の途中《とちゆう》にかくれていて、そこからぶっ放したにちがいありませんよ。編集長、だれか人をやって、あの建築|現場《げんば》をしらべさせてくださいませんか。もっとも、犯人はすでに逃亡《とうぼう》しているでしょうがね」  たちまち建築現場へ、社の記者たちが派遣《はけん》された。そしてその結果によると、たしかにいましがたこの建築現場の鉄骨から、あわただしくおりてきた人物があるということがわかった。そいつはふちのひろい帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、黒いマントをきていたが、そのマントの下に、ステッキのようなものを抱《だ》いていた、ということまでわかった。 「そいつが犯人《はんにん》です。おそらくそのステッキのようなものが銃だったのでしょう」  俊助は、いまさらのように歯ぎしりしてくやしがったがおいつかない。かれは、折井のそばにひざまずくと、涙《なみだ》ぐんだ目でじっとその顔をながめていたが、やがて決意をかためたようにつぶやいた。 「折井、おまえの敵《かたき》はかならずおれがうってやるぞ」  三津木俊助がこの鬼《おに》のような犯人に対して、もうぜんと挑戦《ちようせん》する気になったのは、実にこのしゅんかんだったのだ。ああ、しかし、それはなんというおそろしい戦いだったろうか。かれの行く手には、そのときすでに、多くの危険《きけん》がまちかまえていることが、予想されたのである。  それはさておき、思いがけない折井の死に、社内がごったがえすようなさわぎを演《えん》じているおりから、ひょっこりとこの重役室へはいってきた風がわりな人物があった。 「鮫島さん、いま階下できくと、社内でなにか大事件《だいじけん》が起こったそうで」  その声にふりかえった鮫島編集長は、相手の顔を見るとたちまちうれしそうな顔になって、 「おお、これは矢田貝博士、いいところへきてくださった。いま大変な事が起こったところで」 「いや、そのことならいま階下でききましたわい。どれどれ、死体はどこにありますかな」  眠《ねむ》そうな目をショボショボさせながらあたりをみまわす、その人物のすがたを見ると、だれでも思わずふきだしたくなるようなかっこうをしているのだ。年齢《とし》はいくつぐらいか見当もつかない。顔はカサカサにひからびて、鼻の下とあごにながい山羊《やぎ》ひげをはやしている。しかもひどい近眼《きんがん》とみえて、度の強そうな眼鏡《めがね》をかけ、腰《こし》は弓のようにまがっているのだ。それがふるいフロックコートに山高帽《やまたかぼう》をかぶっているところは、とんと田舎《いなか》の村長といったかっこうだ。  だが、この人こそ、日本で五本の指にかぞえるほどの法医学者であると同時に探偵《たんてい》としても有名な、矢田貝|修三《しゆうぞう》博士その人なのだ。矢田貝博士はちょっとした事件で新日報社を助けたことがあるが、それ以来、犯罪《はんざい》事件がおこると、いつも新日報社のために、はたらいているいわば顧問《こもん》のような人物で、これまで三津木俊助と協力して難事件《なんじけん》を解決《かいけつ》したことも一度や二度ではない。  博士は折井のそばにひざまずくと、 「ほほう」と、めずらしそうに短刀の柄《つか》をながめていたが、 「これは大変だ。わしは前にいちどこれと同じ短刀を見たことがある。これは飛来の短剣《たんけん》といって、銃《じゆう》にこめてうつのですわい」 「その事なら、すでに三津木くんも気がついたところですが」 「ほほう、三津木くんがね」  と、矢田貝博士は目をショボショボさせながら、俊助の顔を見ると、 「さすがは三津木くんじゃ、いや、お若いのに、なかなかよく気がつく。じゃが、おやこれはなんだ」  博士の目がきゅうにギョロリとひかったので、俊助も思わずのぞきこむ。 「三津木くん、きみはこれに気がつかなかったかね。床《ゆか》の上になにやら血で書いてある。おや、これはテッカメンという字じゃないか?」  はっとした俊助が、のぞいてみると、なるほど茶色のリノリウムの上に、のたくるような、血文字で、   テッカメン トハ ヒガシ——  と、書いて、そこでポツンと切れているのだ。おそらく折井は、死のまぎわに、鉄仮面の秘密《ひみつ》を一言書きのこそうとしたにちがいない。しかし、そこまで書いてきて、ついに力つきてたおれてしまったのだろう。 「ヒガシとはなんだろう。人の名前だろうかの、それとも方角のことかな」 「いや、この文章でみると、おそらく人の名にちがいありませんよ。鉄仮面は東なにがしという人間にちがいありませんよ」  俊助がそういったときである。  さっきから、不安そうにだまりこんだまま、この場の様子をながめていた妙子が、どうしたのかふいにヨロヨロとうしろへよろめいた。だが床の血文字に気をとられている一同は、すこしもそれに気がつかない。それにしても、妙子は何をあのようにおどろいたのだろう。彼女《かのじよ》はなにか、鉄仮面の秘密と関係があるのだろうか。  それにしても、おそるべきは鉄仮面である。  ほんとうの戦いは、まだ開始されていないのだ。それにもかかわらず、かれはすでに先手を打って、ひとりの人間をたおした。しかもその手段《しゆだん》の巧妙《こうみよう》さおそろしさ! これだけを見ても、かれがいかにすばらしい腕《うで》を持っているかがわかるのだ。そしてそれと同時に、あの奇怪《きかい》な広告が、たんなるいたずらや、宣伝《せんでん》ではなくて、なにかしらおそろしい意味をもっていることもさっしられる。  がぜん、この事件《じけん》は世間を非常《ひじよう》にびっくりさせたが、なかでも一番おどろきおそれたのはいうまでもなく、宝石王《ほうせきおう》唐沢雷太だった。  唐沢は折井殺人事件の真相をつたえ聞くと同時に、三田《みた》にあるひろびろとした邸内《ていない》の奥《おく》ふかくとじこもって、ぜったいにだれにもあおうとしない。一週間ほどのあいだに、唐沢の顔はすっかりやつれはてて、唇《くちびる》は何かをおそれてわなわなとふるえている。目はおちくぼみ、頬《ほお》はこけ、ちょっとした物音にでもよくとびあがった。こういう様子からみると唐沢はなにかしら鉄仮面なる人物から、うらみをうけるようなおぼえがあったのにちがいない。  それはさておき、自宅の奥ふかく、げんじゅうに錠《じよう》をおろした寝室《しんしつ》のなかにとじこもった唐沢は、かたときも武器《ぶき》がわりの木刀を、そばからはなそうとしなかった。そして、ドアの外にはいつも、ボデーガードの恩田《おんだ》という男がこれまた、げんじゅうに武装《ぶそう》したまま、主人の身をまもっているのである。これではいかに、神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の怪人《かいじん》とはいえ、なかなか唐沢の身辺に近よれそうもなかった。  ところが。——  ある日のことである。例によって寝室にとじこもったまま朝食をすました唐沢が、なにげなく手紙に目をとおしていたが、ふいに、 「わっ!」と、さけぶと、手にしていた手紙を、床《ゆか》の上に落としてしまった。その声におどろいた恩田が、あわててドアをひらいてみると、唐沢は、ベッドの上に気をうしなってたおれている。おどろいた恩田がかけよってみると、床の上に落ちている手紙には、まっ赤な文字で、   あと五日  と、ただそれだけが、そこにあのぶきみな鉄仮面があざ笑うようにかいてあるではないか。  さいわい唐沢はすぐ気がついたが、恩田がこのことを警察《けいさつ》へ報告《ほうこく》しようというのを、なぜかムキになって反対するのだ。ところが、三日後のことである。またもや唐沢の身のまわりにみょうなことがおこった。げんじゅうに塀《へい》をめぐらされた庭内を、唐沢が久しぶりで散歩していると、ふいにどこからともなく、一本の矢がとんできて、グサリとそばの木につきささったのだ。  唐沢はそれを見ると、まっさおになってガタガタとふるえだした。見ると矢の根もとに一枚の紙片がまきつけてある。手に取って見るまでもなく、またしても脅迫《きようはく》の手紙にきまっているのだ。しかし、こわいものみたさとは、こういうことをいうのだろう。こわごわ手に取ってみると、   あと二日  そしてまたもやあの鉄仮面のしるしなのだ。  唐沢はしばらく、とび出すような目でじっとその紙片をながめていたが、きゅうにガチガチと歯をならすと、よろめくように寝室《しんしつ》に帰ってきて、その紙片に火をつけると、そのままベッドのなかにもぐりこんでしまった。唐沢はあくまでひとり、この見えざる敵《てき》と戦うつもりらしい。  ところがその翌日《よくじつ》になって、さすがの唐沢も、ついに考えをかえなければならないような事件《じけん》が突発《とつぱつ》したのだ。  朝目をさますと、唐沢はいつもすぐふろへとびこむことになっているのだが、その日も、例によって、デラックスな湯ぶねにひたりながら、なにげなくむこうの鏡を見ると、何ということだろう、その鏡の上にはせっけんのなぐり書きで、   今夜十二時  と、書いてあるではないか。  唐沢はしばらくばかみたいな顔をして、ポカンとその鏡をながめていたが、きゅうに何者かあやしいものにおそわれたように、ふろからとび出すと、大急ぎで新日報社へ電話をかけて、三津木俊助を呼び出した。 「三津木くんですか。こちらは唐沢です。ええそう、唐沢雷太——きみの名声はかねてから耳にしている。そしてこんどは鉄仮面を相手に戦っていられることも新聞の上で承知《しようち》している。その鉄仮面事件について、ぜひとも、きみにお願いしたいことがあるのだが、すぐわしの家まできてもらえないだろうか。ああ、それから、あの有名な矢田貝博士、あの人にもぜひいっしょにきていただきたいのだが——ええそう、わしはいま、非常《ひじよう》な危険《きけん》にさらされているのだ。ぜひともきみたちに助けてほしいと思っているのだが。——じつは警察のほうへあまりしらせたくないので。——では何分お願いします」  唐沢はそこで電話を切ると、いくらかホッとしたようにひたいの汗《あせ》をぬぐった。  それから一時間ほどのちのことである。  唐沢家の奥《おく》まった一室では、三人の男がひたいをあつめて、ひそひそと密談《みつだん》にふけっていた。三人とはいうまでもない、唐沢と三津木俊助、それからいまひとりは矢田貝修三博士。 「そうすると、さいしょの脅迫状《きようはくじよう》は手紙で、二度めのは矢文で来たが、三度目のは浴室の鏡に書いてあったというのですな」  そういったのは、矢田貝修三博士である。例によって度の強い近眼鏡《きんがんきよう》の奥で、眠《ねむ》そうな目をショボショボとさせている。 「そうなんです。だからわしはこわくてこわくて——あいつはとうとう、塀《へい》を乗り越《こ》えてこの家のなかまでしのんできおったのじゃ」  唐沢はそういいながら、ネットリとひたいに浮かんだ汗を、手の甲《こう》でぬぐうのである。 「三津木くん、あんたはこれをどう思う」 「そうですね。まさか、鉄仮面自身がこのげんじゅうな塀を乗り越えてしのびこもうとは思いませんから、これは家のなかに共犯者《きようはんしや》がいるのじゃありませんか」 「そう、さすがは三津木くんじゃ、よくそこに気がついた。わしはそれにちがいないと思う」  と、矢田貝博士は唐沢をふりかえって、 「唐沢さん、その点について心あたりはありませんか」 「なんといわれる。するとこの邸内《ていない》に鉄仮面の子分がいるといわれるのかな、とんでもない」 「いや、一概《いちがい》にそうはもうせませんぞ。どんな善良《ぜんりよう》な人間でも、欲《よく》には目がくらむものじゃて。ところでおたくの使用人というのは何人いますか」 「何人といって、そう、ボデーガードの恩田をはじめとして、ほかに書生がふたり、お手伝いが三人、そのほかに御子柴進《みこしばすすむ》という少年がひとりいる。これはわしの遠縁《とおえん》にあたる者で」 「なるほど、ところでその恩田という男は、さっきわれわれを出迎《でむか》えたあの男ですな」  矢田貝博士がなぜかニヤリとして、 「ひとつ、あの男をここへ呼《よ》んでくださらんか」 「なんですって、あの恩田がどうかしたというのですか」 「まあ、なんでもよろしい。いまにわかりますて」  唐沢がはげしくびっくりしたような顔つきを見せて、おどろいた様子をあらわすのを、矢田貝博士はとぼけたような顔をして、ジロリと眺《なが》めながら、落ちつきはらっている。唐沢はさっそくかたわらのベルを押《お》したが、それにおうじて現《あらわ》れたのは問題の恩田だった。 「わたしになにかご用でございますか」 「ふむ、こちらにおられる矢田貝先生が、何かおまえに話があるそうだ」  それを聞くと恩田はギクリとしたように顔色をかえる。その様子をじっと見ていた博士、 「恩田くん、わざわざ来てもらってご苦労だった。実はちょっと、きみにたずねたいことがあっての」 「はあ、わたしにお答えできますことなら、なんなりと」 「いや、ありがとう。それじゃ失礼してたずねるが、きみはここでどのくらい月給をもらっているのだね」 「なんでございますって」 「いやさ、きみはいったいどれくらい収入《しゆうにゆう》があるかというのさ。のう、恩田くん、きみはまさか唐沢さんから、十万円以上も月給をもらっているわけじゃあるまいの。ところが、どうだろう、きみは先月と今月の二回にわたって、銀行へ十万円ずつ貯金したの。あの金は、いったいどこからでた金じゃな」  恩田の顔がさっとまっさおになった。しばらくかれは追いつめられた獣《けもの》のような顔をして、じっと矢田貝博士の顔を見つめていたが、きゅうにクルリと身をひるがえすと、いきなり、ドアのほうへ逃《に》げていく。それを見るなり三津木俊助は、いきなりそのうしろからおどりかかると、腰投《こしな》げ一番、みごとにきまって、恩田のからだはもんどりうって床《ゆか》に横たわった。  唐沢はまっさおになって、ブルブルふるえている。まだはっきりとくわしい事情《じじよう》はわからないけれども、なにかしら、かれの思いもよらぬことが、恩田をめぐっておこなわれていたことはたしかなのだ。 「あの、恩田が——恩田が——」  と、唐沢はゼイゼイとのどを鳴らした。 「そうですよ、唐沢さん、つい欲《よく》に目がくれて鉄仮面のやつに買収されおったのですわい。ご苦労、ご苦労、三津木くん、そいつはそのままにして、どこかへ、げんじゅうに監禁《かんきん》しておいてくれたまえ、いずれあとでゆっくり取り調べよう」  俊助が恩田のからだを身うごきができないようにしばりあげて、部屋《へや》の外へひきずり出すと、矢田貝博士は、クルリと唐沢のほうへむきなおって、 「どうです、わかりましたかな。浴室の鏡の上へあんないたずら書きをしたのも、みんな恩田のしわざですわい。さあ、これでひとりはかたづいた。しかしの、なかなかこれで、安心はなりませんぞ。あんたがあれほど信頼《しんらい》している恩田を、まんまと買収するくらいの鉄仮面じゃ、ほかにどのようなカラクリがあろうも知れぬ」 「それじゃ、あなたはあいつが今夜ほんとうにやってくるとお思いになるのですか」  唐沢の目には恐怖《きようふ》の色がいっぱい浮《う》かんでいる。 「ふむ、まあ、その覚悟《かくご》で待っていましょう。やってくればしめたものじゃ。三津木くんと、わしとで捕《つか》まえてみせる。しかしの、わしにはそれよりも、もっとおそろしいことが起こりそうな気がしてならん。いったい、鉄仮面とは何者じゃろう。唐沢さん、あんたはそれをご存知《ぞんじ》なのでしょうな。ひとつ、それをわしに打ち明けてくださるわけにはまいるまいか」  唐沢はだまりこんだまま、じっと考えこんでいたが、ひたいにはジリジリとあぶら汗《あせ》がにじみだしてくる。にぎりしめた手がモルヒネ中毒|患者《かんじや》のように、ブルブルとふるえているのだ。  しばらくして唐沢は、ようやく口を切って話しはじめた。 「博士、そればかりはどうか聞かんでください。これはおそろしい秘密《ひみつ》なのです。わしがこの事件《じけん》を警察《けいさつ》へ報告《ほうこく》しようとせんのも、つまりその、秘密を知られたくないからです。ああ、おそろしい鉄仮面。——ああ、鉄仮面の秘密!」  唐沢は歯をくいしばり、こぶしをかためて、両のこめかみをゴツンゴツンとたたきながら、いまさらのように、ふかいふかい恐怖《きようふ》の溜息《ためいき》をはきだすのだ。  さて、いよいよその夜のことである。  恩田の事件があってから、ますますはげしい恐怖に捕《と》らわれた唐沢は、寝室《しんしつ》へとじこもったまま、一歩も外へ出ようとしない。窓《まど》という窓、ドアというドアは、ことごとく内部から錠《じよう》をおろされて、しかも、そのドアのまえには、矢田貝博士と、三津木俊助のふたりが、目を皿のようにして張り番をしているのだ。  時間はしだいに過《す》ぎていって、やがて、邸内《ていない》のどこやらで十一時を打つ音が聞こえた。 「先生、あいつはほんとうにやってくるのでしょうか」  眠《ねむ》けざましに、いましも、お手伝いさんがいれてきた熱いコーヒーをすすりながら、そういったのは、三津木俊助だ。 「さあ、なんともわからん。しかし、折井くんをやっつけた手ぎわといい、恩田を買収《ばいしゆう》したあのあざやかなやり口といい、わしにはどうも、ほんとうに今夜、おそろしいことが、起こりそうな気がしてならぬのじゃて」  矢田貝博士はそういいながら、われにもなく、ブルブルとからだをふるわすのだ。部屋《へや》のなかでは、唐沢もやはり同じ思いとみえて、ゴトゴトと床の上を歩きまわる足音がする。 「唐沢さんもやっぱり眠れぬとみえますね」 「そりゃむりもない。どんな腹《はら》のすわった男だって、見えぬ敵《てき》と戦うというのはいやなものじゃからなあ」  時間はなおも過ぎていく。やがて十一時半が鳴り、まもなく、十二時近くになった。と、このときである。ふと、かすかな口笛の音が、俊助の耳をうった。 「おや、あれはなんでしょう」 「なんじゃな」 「ほら、あの口笛の音です。先生には聞こえませんか」 「口笛の音?」  矢田貝博士はじっと耳を立てていたが、 「なるほど、口笛の音が聞こえるな。どうやら庭のほうらしい。三津木くん、恩田のやつはだいじょうぶかな」 「はい、あいつはげんじゅうに家の者に見張らせてありますが、ちょっと見てきましょうか」 「うむ、そうしてくれたまえ。それから、ついでに庭のほうを見てきたらどうじゃな」 「承知《しようち》しました。ではあとのところはたのみます」  俊助は用心ぶかくあたりに気をくばりながら、恩田を監禁《かんきん》してある別室のほうに行って見たが、別になんの異状《いじよう》もない。恩田は猿《さる》ぐつわをかまされ、きびしくしばりあげられたまま、ゴロリと床《ゆか》の上に投げだされているのである。そのそばにはがんじょうな書生がひとり、緊張《きんちよう》した面もちでひかえている。 「きみ、きみ、別にかわったことはないかね」 「はあ、なんにもかわったことはありませんが」 「そう、それじゃ、なおいっそうの注意をしてくれたまえ」  俊助はその部屋《へや》のまえを通って庭へ出た。さすが宝石王《ほうせきおう》といわれる唐沢の庭だけあって、これが東京都内かと思われるほどの広大さ。俊助はあたりに注意しながら、ソロソロとその庭をはっていく。空は春にふさわしくぼんやりと曇《くも》り、青々とおいしげった大木が暗い空を背景《はいけい》にして、くっきりとそびえているのもぶきみなのだ。  ルルルルルル、ルルルルルル!  ふたたび、ひくい口笛の音がきこえてきた。  俊助はハッとして木立の根もとにからだをよせたが、ふと見ると、十メートルほどむこうの草むらに、猫《ねこ》のようにからだを丸くして、モクモクと動いている人影《ひとかげ》がみえる。  さてこそ鉄仮面! 俊助は思わず手にしていたバットをにぎりしめた。相手はどうやら、そんなこととは気がつかぬらしい。あいかわらずじっと草むらに身をふせたまま、俊助とは反対の方角をうかがっている。俊助は足音をしのばせながら、ジリジリと、そのほうへ近寄《ちかよ》っていく。相手はまだ気がつかない。これさいわいとばかりに、木かげからおどりだした三津木俊助、いきなり、相手のうしろからおどりかかったが、そのとたん、あっという叫《さけ》びが思わず俊助の口をついて出たのだ。  あやしい黒影は大の男と思ったら、いがいにもまだ十四、五|歳《さい》の少年ではないか。 「なんだ、きみは、進くんじゃないか」  おりからの月明かりにすかして見て、俊助はドキリとして叫んだ。まさしく、この少年こそ唐沢の遠縁《とおえん》にあたるという、御子柴進少年なのである。 「きみはいったい、いまごろ何をしているのだね。さっき口笛を吹いたのはきみかい」 「ちがいますよ、三津木先生」  進は組みふせられた俊助のひざの下から、いきおいよく起きあがると、 「ぼくはいま、あやしいやつが庭をうろついているのを見かけたので、ひそかに様子をうかがっていたのです。チェッ! あなたがよけいなまねをするものだからあやしいやつは逃《に》げてしまったじゃありませんか」 「そうか、そいつはすまなかった。それで、その曲者《くせもの》はどんな風をしていたね」 「わかりません。もうすこしよく見てやろうと思っているところへ、あなたが飛びついてきたものだから、チェッ!」  進はなおもふんがいしながら、ひざの泥《どろ》をはらいながら立ち上がったが、そのとたん、 「あっ、三津木先生! あれはなんです」と、叫《さけ》んだ。  見ると、あかあかと電気に照らされた唐沢の寝室《しんしつ》の窓《まど》には、いましも奇怪《きかい》な影《かげ》がうつっているではないか。ダブダブの二重マントに、つばの広い帽子《ぼうし》をかぶった怪人の影なのだ。そいつがなにやら、ふとい棒《ぼう》のようなものをふりあげて、さっと打ちおろしたかと思うと、そのとたんに、部屋《へや》の中の電気がふっと消えてしまったのである。—— 「たいへんです。三津木先生、だれかおじさんの部屋にしのびこんだ者があります」 「よし、進くん、きみもいっしょにきたまえ」  俊助と進のふたりは、むちゅうになって家のなかへかけこんだが、唐沢の寝室のなかでは、はたしてどのようなことが起こったのだろうか。    それをお話するためには、時計の針《はり》を約二分ほどまえにもどさなければならない。  唐沢はすこしまえに思いきってベッドのなかへはいったが、どうしても眠《ねむ》る気にはなれない。ドアの外には、矢田貝博士と三津木俊助が張り番をしているとわかっているが、それでもまだ安心できないのだ。  唐沢は枕《まくら》もとに置いた木刀を、まさぐりながら、ゆだんなく部屋のなかを見まわしている。寝室の中には、高さ三メートル、幅《はば》一メートルもあるような大時計が置いてあったが、唐沢はさっきから、わき目もふらずその時計の文字|盤《ばん》に目をそそいでいた。  時計の針はいまや十二時二分まえを示している。大きな振《ふ》り子《こ》が、ガラス扉《ど》のむこうで、ユラユラとゆれているのが見えた。時刻《じこく》は、秒一秒とすぎて、やがて二本の針が十二時のところでいっしょになったかと思うと、やがてボーンボーンとゆるやかな時の音が聞こえはじめた。  十二時——鉄仮面《てつかめん》の予告した時間なのだ。  と、そのときである。  唐沢はなんともいえぬほど、おそろしいものをそこに発見したのである。いままでユラユラとガラス扉のむこうに、ゆらめいていた振り子が、いつのまにやら、まっ黒な鉄の仮面にかわっているではないか。  唐沢は思わずのどをつかまれたように、ベッドからからだをのりだした。すくいをもとめようにも舌《した》がもつれて声が出ないのだ。枕もとに置いてある木刀をさぐったが、指がふるえてうまくつかめない。  鉄仮面は、しばらく時計のなかからあざ笑うようにその様子をながめていたが、やがて、十二時をうちおわると同時に、時計のガラス扉がバネじかけのようにパッと外にひらいたのである。  そのなかから鉄の仮面をかぶった男が、ゆうゆうとして寝室《しんしつ》のなかへはいってきた。  ダブダブの二重マントにふちの広いソフト帽《ぼう》、それから手にはふといステッキを持っている。 「助けてくれ!」と、叫《さけ》ぼうとしたが、その声は唐沢の口をもれる前に、恐怖《きようふ》のためにのどの奥《おく》でこわばってしまった。  鉄仮面はクククククとあざ笑うような声をのどの奥で鳴らしながら、ジリジリとベッドのほうへ近づいてくる。まっ黒な仮面の奥から、二つの目がらんらんとかがやいて、ピンと上を向いた三日月型のおおきな口の気味悪さ。  やがて、鉄仮面は唐沢のからだの上にのしかかると、さっとばかりにステッキをふりあげた。——と、同時に室内の電燈《でんとう》がサッと消えて、その暗闇《くらやみ》の底から、 「ヒーッ!」と、いうような、ものすごい叫び声が聞こえたのである。俊助と進が庭からかけこんできたのは、ちょうどそのしゅんかんだった。 [#改ページ] [#小見出し]  乱舞《らんぶ》する大シャンデリア 「ヒーッ!」と、闇《やみ》をつんざく悲鳴にまじって、ドタリと何かをたおすような物音。——すべてはそれでおしまいだった。格闘《かくとう》は一しゅんにしておわったらしい。何ごとが起《お》こったのか、あとはただまっ暗の闇夜のように暗い静けさ。  俊助《しゆんすけ》と進《すすむ》のふたりが息せき切ってかけつけてきたのは、じつにそのしゅんかんなのである。 「唐沢《からさわ》さん! 唐沢さん!」 「おじさん! おじさん!」  ふたりはむちゅうになって、ドアにからだをぶっつけたが、なかからピンと錠《じよう》をおろしたドアは、ビクともしない。 「ちくしょう! 唐沢さん、どうかしましたか、唐沢さん!」 「おじさん、おじさん、ぼくです、進です!」  必死となってよべど叫べど、部屋のなかからうんともすんとも返事はない。しいんとぶきみにさえかえった静けさのなかに、大時計の音だけが、コツコツとひびいてくるのも、このさい、なんともいえぬほどのおそろしさだ。  俊助はゾーッとしたように身をすくめると、ふとドアをたたく手をやめて、 「それにしても、矢田貝博士《やだがいはかせ》はどこへいったのだろう。もしや——」  と、思い出したように廊下《ろうか》を見まわしたが、そのとたん、俊助は思わずギョッと息をのみこんだのだ。見よ、廊下の片すみにある長椅子《ながいす》のむこうからニョッキリと二本の足がのぞいているではないか。しかも、そのズボンの縞《しま》がらに、俊助はたしかに見おぼえがあった。 「あっ! 矢田貝博士だ!」と、叫《さけ》んだ俊助、あわててそばへかけよると、 「先生!」と、ばかりに、ぐいとからだを抱《だ》き起こす。博士は目を閉《と》じ、歯を食いしばって、ぐったりしていたが、死んでいるのではなかった。荒々《あらあら》しい、苦しそうな呼吸《こきゆう》が、旋風《せんぷう》のように長い山羊《やぎ》ひげをふるわしているのである。見るとごましお頭からぶくぶくと血が噴《ふ》き出していて、それが長い毛のはじにたまってかたまりかけている。ぼんやりしているところを、ふいにうしろから襲撃《しゆうげき》されたものにちがいない。 「先生、しっかりしてください。先生——あ、進くん、すまないが、水を——水を——」  進はすぐに、身をひるがえして、廊下《ろうか》のはしに消えたが、まもなく、水びんと、コップとタオルを持ってきた。 「ありがとう。きみはこのタオルで傷口《きずぐち》を冷やしてあげてくれたまえ。先生、矢田貝先生、しっかりしてください」  食いしばった歯を割《わ》って、コップの水をそそぎこむと、博士はようやくうす目をひらいた。 「ああ、三津木《みつぎ》くん——あいつは——あいつは」 「あいつってだれです。先生、しっかりしてください」 「あいつだ! あいつだ! ちくしょう!」  博士はヨロヨロと起きあがったが、すぐまた、力がぬけたようにドシンとそばの椅子《いす》に腰《こし》を落とすと長い山羊ひげをふるわせながら、 「ちくしょうッ——恩田《おんだ》だ、恩田だ。恩田のやつがふいにうしろから——」 「え、それじゃ、恩田のやつが逃《に》げたのですか」  と、俊助はさっと立ち上がると進のほうをふりかえって、 「進くん、ちょっと書生|部屋《べや》を見てきてくれたまえ、ひょっとすると書生のやつも——」  と、みなまで聞かずに御子柴《みこしば》進は、タタタタタと廊下を走っていったが、すぐに引き返してくると、 「先生、たいへんです。見張りの人が、何か薬をかがされたとみえて、ぐったりとのびたまま、いくら起こしても起きません。恩田はナワを切って逃げたらしいです」  ああ、恩田が逃げた。あいつが逃げたとすると、いよいよただごととは思えない。 「先生!」と、俊助がまっさおになって何かいいかけるのを、ふいにしっと手でおさえたのは矢田貝博士だ。きゅうにキッと顔をあげると、 「あ、あれはなんだ! あの声は——」  博士のことばにドキリとした俊助と進のふたりは、これまたキッとドアのほうをふりかえる。  ああ、そのとき、なんともえたいの知れない気味の悪い声が、ゆらゆらと、うずまくように、のたうちまわるように、あるいは高く、あるいはひくく、ときにはすすりなくような尾《お》をひきながら、寝室《しんしつ》のなかから聞こえてきたではないか。  笑い声なのである。人をばかにしたようなひくいふくみ笑い、ゾッとするようなしのび笑い、骨《ほね》を刺《さ》すようなあざけり笑い、——それがしだいしだいにたかまってきたかと思うと、やがて家じゅうをゆるがすような、気味の悪い高らかな笑い声となってきた。あとにも先にも、俊助はこんなおそろしい笑い声を聞いたことがない。 「あっ!」と、さすがの三津木俊助も、一しゅんの間、まっさおになったが、 「ちくしょうッ!」と、歯がみをすると、猛烈《もうれつ》にドアにからだをぶっつけていったのである。 「先生、手を貸《か》してください。曲者《くせもの》はまだこの部屋《へや》のなかにいます、早く! 早く!」 「よし!」  と、矢田貝博士もヨロヨロと立ち上がったが、そのとたん部屋のなかの笑い声はバッタリとやんだ。しかしふたりは、そんなことには一切おかまいなし、ドシン、ドシンとむちゅうになってドアにからだをぶっつける。 「三津木くん、これじゃだめだ。なにかぶちこわすのに役にたちそうなものはないか——」  それを聞くなり進は、廊下《ろうか》をバタバタかけだしていったかと思うと、やがてひっさげてきたのはストーブのなかをかきまわす鉄の火かき棒《ぼう》だった。 「よし!」と、こいつを受け取った俊助、腕《うで》も折れよとばかりに、必死となってドアをなぐりつける。いくらがんじょうなドアも、この猛撃《もうげき》にあってはひとたまりもない。やがてメリメリと音を立てて、あついドアに裂《さ》け目ができた。 「しめた!」と、ばかりにそのすきまから腕を突っこんだ三津木俊助は、なかをさぐると幸い手にさわったのは、内がわからさしこんだ鍵《かぎ》である。  ガチャリ!  そいつをまわしたとたん、ドアがさっと開いたかと思うと、三人のからだはドヤドヤと部屋のなかにおどりこんだ。 「電気。——電気——」  博士の声に勝手知った進が、カチリと壁《かべ》ぎわのスイッチをひねったしゅん間、三人はぼうぜんとして部屋《へや》の入り口に立ちすくんでしまったのである。ああ、なんということだ。部屋のなかはもぬけのから、唐沢はいうまでもない、たったいま、あの気味の悪い笑い声を立てていた怪人《かいじん》のすがたすら見えないのだ。 「や、や、これはどうだ」と、ぽかんとした三津木俊助は、すばやく部屋のなかを見まわしたが、どこにも人のかくれる場所はない。ドアというドア、窓《まど》という窓は、みな内がわからげんじゅうにしまりがしてあって、アリのはい出るすき間もないのだ。それにもかかわらず、怪人のすがたはもちろん、唐沢のすがたさえ見えないではないか。 「セ、先生、これはいったいどうしたというのでしょう」 「フーム」  と、入り口にたたずんだ矢田貝博士、例の度の強い眼鏡《めがね》の奥《おく》で、ショボショボと目をまたたきながら、思わずふというなり声をあげると、 「三津木くん、よういならぬ事件《じけん》だ。こいつはじつに大仕掛《おおじか》けな事件だぜ。この部屋のなかには、きっと人知れぬ秘密《ひみつ》の通路があるにちがいない。進くん、きみはいままでそんな事を聞いたことはないかの」 「いいえ、先生」 「よし、それじゃわれわれの手で、その通路をさがさねばならん。三津木くん、大至急《だいしきゆう》だ。大急ぎでそのあたりをさがしてくれたまえ。ぐずぐずしていると唐沢さんの生命《いのち》が危《あぶ》ない、早く、早く!」  そこで三人は大急ぎで部屋《へや》のなかをさがしまわった。床《ゆか》のじゅうたんをはぐって見た。壁《かべ》をコツコツとたたいてみた。さらに寝台《しんだい》にのぼって、てんじょうをさぐって見た。三人とも必死なのだ。しかし、どこにもあやしいと思われる箇所《かしよ》はない。五分ほどたつと三人ともガッカリとしたような顔を見あわせる。 「先生、どこにも変な箇所はありませんね」 「いや、そんなはずはない。どこかに見落としがあるのじゃ。どこかに、われわれの気づかぬ箇所があるのだ。あッ」  と、ふいに博士はあの大時計を見て、 「三津木くん、きみの時計はいま何時だね」 「ぼくの時計ですか。ぼくの時計はいま十二時十五分すぎです」と、いいかけて、俊助はドキリとしたようにまゆをひそめると、「先生、これはふしぎです。この大時計はいま十二時十分を指していますね。ところがぼくがさっき、この大時計が十二時を打つのを庭で聞いたのですが、そのときなにげなくぼくの時計と合わしてみたところが、キッチリと合っていました。それがわずかのあいだに五分おくれるなんて、これはいったいどうしたことでしょう」 「だれかが、この時計にさわったのだね。そうだ、秘密のカラクリはこの時計にある」  矢田貝博士はつかつかとその時計のそばによって、しばらくにらんでいたが、ふと俊助のほうをふりかえると、 「三津木くん、きみがさっき唐沢さんの悲鳴を聞いたのは何時ごろだったかね」 「そう、あれは十二時を打ってまもなくでした」 「よし!」  と、うなずいた矢田貝博士、目がキラキラとひかったかと思うと、まがっていた腰《こし》さえきゅうにシャンとして、 「三津木くん、すまないが、この時計の針《はり》をもう一度十二時のところにやってくれたまえ」 「十二時に——? どうするのですか、先生」 「まあ、いい。なんでもいいからやってくれたまえ」  俊助はふしぎそうにのびあがって、時計の針をクルクルとまわす。一時、二時、三時、四時、五時——時間はすばらしいいきおいですぎていくと、やがてふたたび針は十二時のところでかさなった。  ボーン、ボーン、ボーン。  ゆるやかな音が十二時を打ちはじめる。ふたりはそれを聞くと、手に汗《あせ》を握《にぎ》って時計をじっとみつめている、やがてボーンと最後の十二の音が、ゆるやかなひびきを残してきえていった。——と、そのとたん、ふいにギリギリとみょうな音がしたかと思うと、すばらしいいきおいで下のガラス扉《ど》がパッとひらいたのだ。  あっと叫《さけ》んで俊助は、思わずうしろへとびのいたが、次のしゅんかん、いきなりガラス扉のなかにおどりこむと、ゆるやかにうごいている振《ふ》り子《こ》を押《お》しのけて、しばらく時計のなかを探《さぐ》っていたが、ふと手にさわったのは小さいボタンだ。 「あ、先生、みょうなものがありますよ」と、しばらくそれをまさぐっているうちに、なにげなくグイとおすと、これはどうしたことだろう。ふいに大時計の奥《おく》が、スルスルと床《ゆか》のなかに吸《す》いこまれていったではないか。いやいや、時計の奥ばかりではない。ちょうどその裏《うら》がわにあたっている壁《かべ》さえも、スルスルと下へくい込《こ》んで、そこにポッカリと、人が出入りをするだけの穴《あな》があいたのである。 「これだ!」と、俊助はほかのふたりを振りかえって、 「先生、これが抜《ぬ》け道です。鉄仮面《てつかめん》のやつ、ここから唐沢さんをひっさらっていったのですよ」 「よし、それじゃわしがはいってみよう」  と、矢田貝博士はそれを見るなり、まっ先にこの穴のなかへはいっていこうとする。なにを思ったのか三津木俊助、 「先生、しばらく待ってください。穴のなかにはどんな仕掛《しか》けがしてあるかわかりませんよ。どうでしょう、ぼくと進くんが取りあえず探検《たんけん》してきますから、先生はここで見張りをしていてくれませんか。どういうはずみに悪党《あくとう》どもが、こちらのほうへ逃《に》げてくるかも知れませんからね」 「なるほど。それもそうじゃ。ではわしはここで番をしていてやろう。きみたちいってきたまえ」 「進くん、それじゃきみもゆこう。きみ、こわいことはないだろうな」 「だいじょうぶですよ。先生、おじさんのかたきです。ぼく、どんなことでもやりますよ」  ニッコリとほほえみをうかべた御子柴進、早くも自分から進んで穴のなかへもぐりこもうとする。 「ふむ、きみはなかなか勇敢《ゆうかん》な少年だね。よしきたまえ。先生、それじゃあとはねがいますよ」  と、三津木俊助、片手に懐中電燈《かいちゆうでんとう》を持ってキッと身がまえると、ぐずぐずしてはいられないとばかりに、まっ暗な通路のなかにおどりこむ。  おそらく、壁と壁のあいだをくりぬいた通路なのであろう。ひとりの人間がようやく通れるくらいのせまい道なのだ。歩くたびにザラザラと壁土がこぼれて、息がつまりそうな暗闇《くらやみ》がのしかかるようにふたりの上におおいかぶさってくる。 「進くん、気をつけたまえ。どこに悪者がかくれているかもしれないからね」 「はい、だいじょうぶです」  壁をつたわってものの五メートルもいくと、そこに危《あぶ》なっかしい階段《かいだん》がある。でこぼこと石をきざんだような階段なのだ。 「階段だぜ、気をつけたまえ」  うしろへ注意しながら、俊助はその階段をおりていく。一段、二段、三段——階段はぜんぶで十八段あった。それをおり切ると、こんどはまたせまいトンネルだ。 「ふうむ、ずいぶん大仕掛《おおじか》けなことをやりやがったものだな。いったい、いつのまにこんな工事をしたのだろう」  進はもくもくとして、俊助のあとから歩いていたが、ふと思いだしたように、 「あ、そうです。去年の秋、おじさんは三か月ほど、家をあけて旅行していたことがありますが、そのあいだ、あの恩田のやつが、この家をあずかっていたのです。この工事はきっと、そのあいだにやったにちがいありませんよ」  それからまた、ふたりは無言のまま進んでいく。トンネルはしだいに広くなってきた。ところどころ土がくずれて、水の噴《ふ》き出している箇所《かしよ》が見える。ふいに俊助は何を見つけたのか、あっといって立ち止まった。 「ど、どうかしましたか」 「見たまえ」  と、俊助は身をかがめるとなにやらひろいあげて、それをてのひらにのせると、進のほうにさしだした。 「きみ、このボタンに見おぼえはないかね」 「ああ、これはたしか、おじさんのパジャマについていたボタンですよ」 「ふむ、すると、いよいよ唐沢さんはここから連れだされたのにちがいないね」 「セ、先生、おじさんはまだ生きているでしょうか。それとも——」 「しっ、進くん、そんなことを考えちゃいけないのだ。とにかく、ゆけるところまでいってみよう」  ふたりはまたもや、闇のなかを進んでいく。地下道はいよいよせまくなって、しまいにははっていくよりほかにしようがなくなった。空気はいよいよ重苦しく、ひょっとすると、このままおしつぶされてしまうのではないかという気さえする。一メートル、二メートル——四つんばいになったふたりは、まっ暗ななかをもぐらのように進んでいく。ふいに先に立った俊助が、おやというように首をかしげた。 「先生どうかしましたか」 「進くん、きみには聞こえないかね、あのサラサラという風の音が……」 「ああ、聞こえます。それにさっきからくらべると、だいぶ息がらくになりましたね」 「ふむ、してみると、いよいよ地下道の終わりへきたのかな、とにかく、急いでいってみよう」  これに力が湧《わ》いたふたりが、まっしぐらに闇《やみ》のなかを進んでいくと、ふいにバッタリ俊助は、冷たい土の壁《かべ》に鼻をぶっつけた。 「おや」  と、俊助がひるんだとたん、進がいきなり、 「あ、先生あんなところに星が見えます」と、叫んだ。  なるほどあおげば、まっ暗ななかに、キラキラと星が美しくまたたいているのが見える。 「進くん、これはなんだ。どこかの古井戸《ふるいど》の底にちがいないぜ、どこかそのへんにはしごのようなものがかかってやしないかね」  進はのびあがって手さぐりに、そのへんをさぐっていたが、やがて、 「あ、ありました、ありました」  と、いう声に、俊助がサッと懐中電燈《かいちゆうでんとう》を照らしてみると、なるほど上のほうからなわばしごが一すじダラリとたれているのだ。 「しめた! 進くん、ぼくが先にのぼってみるから、きみもきたかったらあとからきたまえ」  俊助はそういうと、すぐさま、猿《さる》のようにそのなわばしごをつたわっていく。進もおくれずに、そのあとからついていった。  ああ、このときかれらは、もう少ししんちょうにあたりの様子を見るべきだった。なぜならば、ようやくこのなわばしごをのぼりきった俊助が、なにげなく井戸のなかから顔を出したとたん、なにやらまっ黒なものが、フワリと頭の上から落ちてきたのだ。 「あっ、しまっ……」と、いいかけたが、そのことばはとちゅうで消えてしまった。と思うと、俊助のからだは黒い袋《ふくろ》につつまれたまま、スルスルと空中に引きあげられたのだ。 「しめしめ、うまくいったぞ」  暗闇のなかで、二つ三つの影《かげ》がチラチラとうごいたかと思うと、闇のなかから声がする。聞きおぼえのある恩田の声だ。 「ちくしょうッ!」と、歯がみをしたが手おくれだった。手早くだれかが袋の口をゆわえたから、俊助はいまやまったく袋の鼠《ねずみ》である。 「おい、もうひとりあとからくるぜ。だれだい。あの老いぼれ探偵《たんてい》じゃないかね」 「いや」と、別の声が、「どうやら小僧《こぞう》っ子《こ》のようだ」 「小僧っ子? ちくしょう、進のやつだな、あいつにゃ用はねえ。かまわねえからなわばしごをたたき切ってしまいねえ」 「よし、きた」  と、ひとりの男がなわばしごにむかって、さっと刃物《はもの》をおろしたからたまらない。途中《とちゆう》までのぼっていた進は、 「あっ!」  と、ひとこえ、悲鳴ににた声を残して、まっさかさまに、井戸《いど》の底へと落ちていったのである。  それから二時間ほどのちのこと。  深夜の両国橋《りようごくばし》の上に、一台の自動車がとまったかと思うと、なかから降《お》りてきたのは、恩田をはじめ三人の荒《あら》くれ男だった。 「いいかい、だいじょうぶかい。だれもいやしねえだろうな」 「だいじょうぶ、この真夜中だ。だれが見ているものか。早いとこやってしまいねえ」 「よし」と、叫んで、がんじょうな男が、自動車のなかからズルズルと引きずり出したのは、人間の形をした二つの袋《ふくろ》、恩田はニヤリと笑いながら、 「おい、唐沢のじいさんに三津木俊助、よく聞きねえよ。唐沢雷太は古狸《ふるだぬき》、いまにお海に沈《しず》むだろうというのはこのことさ、ほーら、なむあみだぶつ」  と、叫《さけ》んだかと思うと、ああなんということだろう。一つまた一つ、二つの袋がくるくると空中におどって、やがて橋からまっ暗な川のなかへ。  ブクブクブク、ブクブクブク。——  川のなかから小さい泡《あわ》が、浮《う》きあがってきたかと思うと、あとはまたもとのような静けさ。    その翌日《よくじつ》、東京都民は、世にもおそろしいニュースを新聞紙上に発見した。袋づめになった唐沢雷太の死体が、佃島《つくだじま》の近くに浮きあがったというのである。ああ、鉄仮面のあのぶきみな予告は、はたしてうそではなかった。唐沢は歌のもんくにあったとおり、まるで泥舟《どろぶね》に乗った狸のように、ブクブクと海底に沈められたのである。しかも生きながら。——  このニュースは東京都民を身ぶるいさせるにじゅうぶんであった。なんというおそろしいばかりの冷たさ、なんという残酷《ざんこく》さ、たとえ鉄仮面のがわにどのような正しい理由があるにせよ、その手段《しゆだん》のあまりのひどさに、人びとがなんともいえない敵意《てきい》と憎《にく》しみをかんじたのも、まったくむりではなかったのである。  おまけに、鉄仮面は早すでに、ふたりまでも、つみのない者を殺しているのだ。折井律太《おりいりつた》に三津木俊助。——  ああ、三津木俊助もついにあの鉄仮面の魔《ま》の手には手むかうこともできなかったのであろうか。警察《けいさつ》ならびに新日報社では、おそらく俊助も唐沢とともに、生きながら水葬礼《すいそうれい》にされたのにちがいないと、必死となって隅田川《すみだがわ》の上下を探《さが》したのだったが、ふしぎと、かれの死体はどこからも発見されなかった。しかし、たとえ死体が発見されなかったにもせよ、あのげんじゅうな袋づめのまま、水中に投げこまれたのだから、万に一つも生きている見こみはあるまい。  こうして人びとが腕《うで》ききの新聞記者の死を悲しみ、残酷な鉄仮面を憎んでいるとき、とつじょとしてふたたびあの奇怪《きかい》な新聞広告が現《あらわ》れたのである。  鉄仮面の予告なのだ。大胆《だいたん》ふてきな鉄仮面の犯罪《はんざい》広告なのだ。しかも、こんどの犠牲者《ぎせいしや》は、花のような美しい娘《むすめ》。  ある朝、人びとは次のような奇怪な広告を見たのである。     欲《よく》ばりばばあは欲ばって    お化けのつづらをしょいこんだ   親の因果《いんが》が子にむくい    香椎文代《かしいふみよ》のいじらしさ    例によってそういうもんくの下には、お化けのつづらをひらいた欲ばりばあさんが、びっくりして腰《こし》をぬかしている場面が、まことにへたくそな筆でかいてあった。しかもそのばあさんの顔が、あの有名なミュージカル女優《じよゆう》、香椎文代の写真になっていることも、また、つづらのなかから、ニョロニョロと首をだしているロクロ首が、鉄仮面をかぶっていることも、ほとんどカチカチ山の場合と同様であった。  さあ、世間のさわぎといったらお話にならない。それもそのはず、香椎文代といえば、いま東京じゅうのファンの人気をひとりでしょいこんでいるほどのたいした人気者。その人気者が、相手もあろうに鉄仮面にみこまれたのだ。あの幽霊《ゆうれい》のような鉄仮面に。——  こういうさわぎのまっさいちゅうに、新日報社の三階の会議室では、きょうもまたひそひそと密談《みつだん》がつづけられている。 「いや、どうしてもわれわれは、この鬼《おに》のような、鉄仮面と戦わねばなりません。たとえ会社がつぶれても、あいつをたおさなければわたしは承知《しようち》しません」  顔を赤くし、きっぱりとそういいながら、ずらりといならぶ重役たちの顔を見わたしたのは、いわずと知れた鮫島編集長《さめじまへんしゆうちよう》だ。 「考えてもみてください。われわれはすでに、ふたりまでもよい社員をあいつのために犠牲にしている。そのとむらい合戦です。鉄仮面をたおすか、この新日報社が敗れるか、われわれは最後まで戦いぬきましょう」  そういったときには、部下思いの鮫島編集長の目には、キラリと涙《なみだ》さえひかっていた。部下を思うその気持ちには、だれも打たれずにはいられなかった。さっきまで、この無意味で危険《きけん》な争いをやめさせようとして反対していた他の重役も、これには一言もなかった。  こうして一同がひっそりとして声なく、しいんと静まりかえったとき、ふと席の片《かた》すみから低い声をかけた者がある。 「いや、鮫島編集長のご決心をうけたまわって、わしもつくづく感心しましたわい。いや、とうぜんそうあるべきでございましょう。社の面目にかけても、また新聞社のつとめとしても、そうなければならぬはずですわい」  その声に一座《いちざ》の人びとが、ハッとしてふりかえれば、いつの間にはいってきたのやら、あの矢田貝博士《やだがいはかせ》が、例によって度の強い近眼鏡《きんがんきよう》の奥《おく》から、まぶしそうな目をショボショボとさせているのである。 「ああ、先生よくいらしってくださいました。お待ちしていたところです。どうぞこちらへ」 「はい、はい」  と、矢田貝博士は、すすめられるままに、鮫島編集長のまえの椅子《いす》にどっかと腰《こし》をおろすと、 「しかし鮫島さん、あなたはこの鉄仮面を捕《と》らえるについて、なにかいい知恵《ちえ》がおありかな」 「いや、それがないので、弱っています。なにしろむこうは、幽霊《ゆうれい》みたいな、とらえどころのないやつですから」 「そ、そこじゃて」  と、矢田貝博士はきゅうにからだを前へ乗り出すと、 「わしはもう、こんな口出しをする資格《しかく》がないかもしれません。なにしろ唐沢さんの場合には、あのように失敗したんですからな」 「いや、先生、決してそのようなけんそんにはおよびません。お考えがあったら、ぜひ、おっしゃってください」 「そうかの。そういわれればいうが、これはこちらもひとつスパイを使ったらよかろうと思う」 「スパイというと?」 「そう、この前もお話したように、唐沢さんの場合には、あらかじめ恩田というやつを、ボデーガードとして住みこませていたぐらい、悪知恵にたけた鉄仮面のことじゃ。こんどじゃとて、香椎文代のまわりに、スパイがかならずつきまとっている。そこで、こちらでもひとつその裏《うら》をかいて、だれかを文代のまわりに住み込《こ》ませておくのですな」 「なるほど、しかしそれがそううまくいくでしょうか」 「いかぬこともなかろう。そのスパイになる人物しだいじゃ。ところでちょうどさいわい、きょう新聞の三行広告に、このような広告がでているのを、あなたはご存知《ぞんじ》かの」  そういいながら、矢田貝博士の取りだした新聞を見ると、そこには次のような三行広告がのっているのだ。 [#三行広告(fig1.jpg、横113×縦431、上寄せ)] 「ほほう」  と、鮫島編集長は思わず目をみはった。 「これはおあつらえむきですね」 「そう、しかし、問題はそのつきびとになる人物じゃが、あなたにだれか心あたりがありますか」  鮫島編集長はしばらくだまって考えていたが、やがてニッコリとして顔をあげると、なにを思ったのか、いきなりジリジリとベルをならす。と、そのベルにこたえて現《あらわ》れたのは、あの美人の女|秘書桑野妙子《ひしよくわのたえこ》である。 「なにかご用でございますか」 「桑野くん、ちょっとこの新聞を見てくれたまえ」  妙子は指さされた三行広告の上にすばやく目を走らせたが、すぐにいぶかしそうな目をあげる。 「桑野くん、用事というのは、ほかでもない。きみにひとつ、香椎文代のところに、住み込《こ》んでもらいたいのだが」 「え?」  妙子はさっとまっさおになった。 「あのわたしが……」 「そうじゃ。そのわけは、いうまでもあるまい。香椎文代は鉄仮面にのろわれている女だ。そしてその鉄仮面は、きみの尊敬《そんけい》していた三津木俊助くんのかたきだ。どうだ、むずかしい役目だが、この大役をやってくれる気はないかね」  妙子はしばらく、だまりこんだまま考えていた。顔色がまっさおになって、両のこめかみからタラタラと汗《あせ》が流れた。だがふいに思いあまったように、妙子はワッとその場に泣きふすと、 「やります、やります! わたしきっとこの大役をやってみせます、三津木さんのために——」  と、決意をこめていいはなったのである。    それからちょうど、一週間ほどのちのこと。ここは香椎文代が出演《しゆつえん》して、多くのファンの人気を集めているミュージカルを上演ちゅうの、東都劇場《とうとげきじよう》の楽屋である。 「妙子さん、あたしもうこわくて、こわくて……」  三面鏡にむかって、いましも美しい女王のメーキャップをおわったばかりの香椎文代は、くるりと椅子《いす》をまわすと、涙《なみだ》ぐんだ目で、ちかごろやとったばかりのつきびと[#「つきびと」に傍点]の桑野妙子にうったえるようにいった。 「おじょうさま、だいじょうぶですったら。そのためにこうして、劇場のまわりには、おおぜいの警官《けいかん》や刑事《けいじ》がはりこんでいてくださるんですもの」 「だめよ、妙子さん、警官なんてにんぎょうも同じことよ。だってあなた唐沢さんの事件《じけん》をご存知《ぞんじ》でしょう。あのときだって、げんじゅうな警戒《けいかい》をしていたのに、けっきょくなんにもならなかったというじゃありませんか。ああ、妙子さん、あたしこわい。ねえ、あたしのたよりにするのは、ほんとうにあなたひとりよ。あなた、どうぞ、いつまでもあたしのそばをはなれないでね」 「おじょうさま、どうしてきょうにかぎってそんなことをおっしゃいますの。ええ、ええ、わたしあなたのほうがいやだとおっしゃっても、決しておそばをはなれないつもりでございますわ」 「ありがとう。妙子さん」  と、文代はうっすらと涙《なみだ》の浮《う》かんだ目で妙子を見ながら、 「あたしね、なんだかあなたが他人のように思えないのよ。さいしょお目にかかったときから、あたし、あなたがやさしいお姉さまのような気がしてならないの」 「まあ、もったいない、おじょうさま」 「いいえ、ほんとうなのよ。妙子さん、まあ聞いてちょうだいな。あたしのようなくらしをしていると、さぞはなやかな、楽しいことばかりだろうとお思いになるでしょう。でも大ちがいよ。あたしには親もなければ兄弟もない、それこそさびしいひとりぽっち。妙子さん、あなたあたしのお姉さまになってくださらない」  妙子は今年二十一、そして文代は二つ下の十九、どちらがどっちともいえないほど、美しい少女だった。さすがに妙子は年かさであり、新聞社というようなところに勤《つと》めているだけあって、年齢《ねんれい》ににあわずしっかりしたところがあるのに反して、文代はまだほんの子供《こども》っぽい、いかにもあどけない美しさだった。  しかしよくよく見ていると、このふたりはどこか共通したところがあった。美しい顔形のどこかにあるさびしさ——それはふたりの境遇《きようぐう》からきているのかもしれない。なぜなら妙子も文代と同じくこの世のなかでたったひとりの孤児《こじ》であったから。 「おじょうさま、お姉さまになるなんてもったいない。でも、わたしもうどんなことがあってもあなたのそばははなれませんわ。わたしきっと、きっと、おじょうさまの身をおまもりいたしますわ」  文代にやとわれるようになってから、妙子はこの年若いミュージカルの人気者を、おじょうさまと呼《よ》んでいるのである。 「おじょうさま、でもわたしふしぎでなりませんわ。あなたのようなおやさしい人を、なんのうらみで鉄仮面はつけねらっているのでしょうね」 「妙子さん」  と、文代はさびしげに目をふせて、 「あたしにはその理由がちゃんとわかっているのよ。あなたもあの広告に、親の因果《いんが》が子にむくい、とあったのをご存知《ごんじ》でしょう。あたし、亡《な》くなった父の悪事のむくいを受けておりますのよ」 「まあ!」 「わたしの父は香椎弁造《かしいべんぞう》といって、かなり有名な検事《けんじ》だったんですって。そして生きているうち、このあいだ殺された唐沢雷太さんとはとても仲好しだったといいますから、何かきっとふたりで、あの鉄仮面にうらまれるようなことをしたのにちがいありませんわ。あたしそのむくいを受けておりますのよ」 「まあ、だって、それは何もあなたの知ったことじゃないじゃありませんか」 「ええ、でも、相手にすればよっぽどくやしいことがあったにちがいありませんわ。父はずいぶんきびしいいじのわるい人だったといいますから。——でもね、じぶんの娘《むすめ》にまでたたるような、どんなおそろしいことをしたのかと思うと、あたしもうこわくてこわくて……」  文代はそこまでいうと、ワッとばかり泣きふすのだ。妙子はなんといってなぐさめていいかわからない。かわいそうに、なにも知らぬこの美しい少女が、いかに父のむくいとはいえ、こんな苦しみを味わわねばならぬのかと思うと、妙子ははらわたをちぎられるような同情《どうじよう》をかんずるのだ。  文代はしばらくしてふと顔をあげると、 「まあ、あたしとしたことが、こんなつまらないお話をして、ごめんなさいね。あら、あれ開幕《かいまく》のベルじゃないかしら」  文代はいそいで涙《なみだ》をふくと、その上にかるくおしろいをたたきつけながら、 「ねえ、こんなおそろしい思いをしながら、やっぱりお客さまのまえで、笑っておどらねばならないなんて、ずいぶんいやな職業《しよくぎよう》ね」  と、そういいながらも、文代は、さびしい微笑《びしよう》を浮《う》かべて、大急ぎで楽屋を出ていった。  あとに残った妙子は、しばらくもの思わしげな顔をしてじっと考えこんでいる。やがて文代が舞台《ぶたい》に現《あらわ》れたのだろう。割《わ》れるような拍手《はくしゆ》の音が、どっとなだれをうつようにここまで聞こえてくる。妙子はそれを聞くと、ふと立ち上がって、楽屋から出たが、そのとたん、彼女《かのじよ》はギョッとして、そこに立ちすくんだ。 「まあ、そこにいるのはだれ?」 「へへへ、あっしですよ、おじょうさん」  そういいながら、うす暗い道具うらから、ひょっこりと顔をあげたのは、つい近ごろ、この劇場《げきじよう》へやとわれてきたばかりの、仙公《せんこう》という少しにぶい大道具係である。まだ若い男だが、顔じゅうにぶしょうひげをはやした熊《くま》のような男。おまけに左のひたいからあごへかけて、おそろしい傷《きず》あとがあるのが、なんともいえぬほどものすごいのだ。  妙子は思わずぶるぶると身ぶるいをしながら、 「あなた、いったいこんなところで、なにをしているのよ。ここは、あなたなんかのくる場所じゃないでしょう」  妙子はふと、この男、鉄仮面のまわし者じゃないかしらと考えて、きゅうにおそろしくなってきた。 「なあに、その、ちょっと用事がございまして、おじょうさんは相変わらずお美しいですな。へへへ」 「まあ、いやだ、あっちへいってちょうだい。二度とこんなとこでまごまごしていると、支配人《しはいにん》に、いいつけますよ」  と、妙子が声をふるわしていったときだった。何ごとが起こったのか、観客席から、ワーッという叫《さけ》び声。 「あら!」 「なんだ、あれは!」  きっとふりかえった仙公の様子には、いままでのようなにぶいところはひとつもない。妙子はいよいよあやしいと思ったが、それよりも気になるのはあの観客席のさわぎ方。ワッと総立《そうだ》ちになるような物音、劇場《げきじよう》をゆるがすような叫び声、悲鳴、どなり声。—— 「ああ、鉄仮面だ! 鉄仮面だ!」 「助けてえ!」と、いう声も聞こえる。  ハッと色を失った妙子が、仙公とともにほとんどひととびのはやさで、舞台《ぶたい》の袖口《そでぐち》まできて見ると、ああ、これはなんとしたことだ。  観客席の上にぶらさがった、花のような大シャンデリアが、あたかも嵐《あらし》にあった小舟《こぶね》のように、ユサユサと大きくゆれて、飛び散る切り子ガラスのかざり、花の玉があられととんで、しかもその大シャンデリアの上に、コウモリのようにハタハタと羽をひるがえしながら、吸《す》いついているのは、ひと目で知れるあの気味悪い鉄仮面——鉄仮面なのである。  舞台を見ると、まっさおになった香椎文代が、あたかも蛇《へび》にみいられた蛙《かえる》のように、力なく、ぼうぜんとして突《つ》っ立《た》っている。  舞台の上のこの花の女王と、大シャンデリアの上の鉄仮面と、さらに舞台わきに突っ立った妙子と仙公と——ごったがえすような劇場のなかに、この四人が向き合うこと一しゅん、とつじょ、鉄仮面の唇《くちびる》から、世にも奇怪《きかい》な笑い声がもれてきた。すすりなくような、ばかにするような、あざけり笑うような、なんともいえないおそろしい、おそろしい笑い声、唐沢の寝室《しんしつ》から聞こえてきたと同じあの笑い声が……。 [#改ページ] [#小見出し]  奇々怪々《ききかいかい》の傷男出現《きずおとこしゆつげん》  人びとは一しゅんの間、身うごきもしないでシーンと息をのんだまま、大シャンデリアにぶらさがっている、この奇怪《きかい》な人間コウモリの行動を見まもった。  ——と、このときである。鉄仮面《てつかめん》はふと、気味悪い笑い声をやめると、二重マントの袖《そで》の下から取りだしたのは、奇妙《きみよう》な一ちょうの弓と、一本の白羽の矢。ヤモリのように大シャンデリアに吸《す》いついたまま弓に矢をつがえると、こいつをキリキリと引きしぼったから、おどろいたのは観客である。 「わっ!」と、声をあげてふたたび観客席のなかで大きくなだれをうち返した。  鉄仮面はしかし、そういうさわぎには目もくれず、引きしぼったねらいのまとは、まさしく舞台《ぶたい》の上の香椎文代《かしいふみよ》をさしている。二、三度その矢先が空中でフラフラとさまよったかと思うと、やがてピタリとうごかなくなった。ねらいはきまった。弓づるが満月のようにキリリと引きしぼられた。やがて、ビューンとかすかな音を立てながら、白羽の矢は白い直線をつくって、ななめにサッと空をきって舞台のほうへ飛んできた……。  と、そのしゅんかんである。いままで舞台の袖《そで》に立ちすくんでいた桑野妙子《くわのたえこ》が、あっと叫《さけ》ぶと、まりのように舞台へとびだして、いきなり文代のからだをかかえると、ふたりともころげるように舞台にからだをふせた。あのおそろしい白羽の矢が、文代の頬《ほお》をかすめて、うしろにあるこしらえものの立木に、グサッと突《つ》き立《た》ったのはじつにそのしゅんかんだった。ねらいははずれたのである。 「おじょうさま。この間に早く、早く」 「あ、妙子さん!」  むちゅうになって妙子のからだにすがりついた文代の顔は、土のようにまっさおだ。あまりのおそろしさに、からだじゅうの力がツーッとぬけてしまって、起きなおることもできないのである。 「おじょうさま、しっかりあそばせ、ぐずぐずしている場合じゃありませんわ」 「ありがとう。妙子さん」  と、文代は涙ぐみながら、 「でも、あたしもうだめよ」 「だめ? まあ、そんなことございますものか。あれ、また二本めの矢をつがえておりますわ」 「だって、だって、妙子さん、あたしもうだめなのよ。だめだわ。あいつにのろい殺されるんだわ。あたしより、あなた危《あぶ》ないから早く逃《に》げてちょうだい」 「いいえ、わたしなんか、どうでもいいのよ。そんな弱気で、あなたどうなさいますの、あ、あれえッ!」  叫び声もろとも、文代のからだをおしころがして、妙子ががば[#「がば」に傍点]とその上に身をふせたそのとたん、二本めの矢がピューッと風をきってとんできた。しかし、その二本めもねらいははずれたのだ。すぐそばの床《ゆか》に突っ立って、ブルンブルンと矢羽根をふるわせているその気味悪さ。  なにを思ったのか、妙子はふいにすくっと立ちあがった。見ればあのシャンデリアの上では、鉄仮面が、さらに三本めの矢をとりだしている。しかも、この奇怪《きかい》さに気をのまれた客席の観客は、たれひとり、舞台《ぶたい》の上の少女たちをすくおうとはしないのだ。  妙子はツツーと、床をはうように、舞台からもとの袖のところに引きかえしてきた。そこには幕《まく》を開閉《かいへい》するための太いつながまきつけてある。妙子はやにわにそのつなに手をかけたが、むすび目をとくのさえ気がせかれる。とっさの機転であらかじめ護身用《ごしんよう》にと持っていたふところの短剣《たんけん》をギラリと引きぬくと、はっしと、つなの上に振《ふ》りおろしたからたまらない。たちきられたつなが、くるくると空中に躍《おど》ったかと見ると、重い幕《まく》が左右から、さっと風をまいて、舞台の正面に落ちてきた。  三本めの矢は、はっしとばかりに、この幕の上に突《つ》っ立ったのである。  夢《ゆめ》からさめたように、どっとばかりに観客席から起こるどよめき。  鉄仮面は仕そんじたとばかりに、歯をかみならし、幕の上をにらんでいたが、やがてサッと弓を投げすてると、二重マントの袖《そで》をハタハタとひるがえしつつ、スルスルスル、猿《さる》のような身軽さで、シャンデリアの心棒《しんぼう》をのぼっていくのだ。その重みにたえかねて、大きなシャンデリアがユサユサと左右にゆれると、花のかざりがカチカチと音を立ててふれ合い、切り子ガラスの玉が、あられのように、ちぎれてとんだ。 「ああ、逃《に》げる、逃げるぞ」 「てんじょうだ、てんじょうだ」  相手が逃げるとみてにわかに勇気をとりもどした観客が、口ぐちにわめきながら眺《なが》めるうちに、鉄仮面はシャンデリアの心棒をのぼりきって、唐草《からくさ》もようを描《えが》いたてんじょうを下から見あげる。  と、見ると、いつの間にくり抜《ぬ》いてあったのか、てんじょうの花模様《はなもよう》が、ポッカリはずれて、そこに一メートル平方ばかりの穴《あな》があいたのだ。 「あっ」  と、いまさらのようにぎょうてんした観客たち。 「あ、てんじょううらだ、てんじょううらへ逃げる」 「屋根うらだ。いや、屋上へ逃げるのだ」  と、口ぐちにどなっているのをしりめにかけて、ゆうゆうと、その穴のなかへもぐりこむと、なんというにくにくしさであろう、鉄仮面は帽子《ぼうし》をとって、大げさなおじぎをすると、そのままてんじょううらの闇《やみ》にぬりつぶされてしまったのである。  相手のすがたが見えなくなると、きゅうに強くなるのがやじうまの特徴《とくちよう》である。 「あっちへ逃げた、あっちへ逃げた」 「いや、屋上だ。屋上から逃げるのだ」  と、ばかりに、いままで鳴りをしずめていた観客が、にわかに活気づいているところへ、ようやく知らせによって警官《けいかん》の一行がかけつけてきた。 「鉄仮面はどこだ。鉄仮面はどこへ行った」 「鉄仮面はてんじょううらです」  それっとばかりに警官の一行と、やじうまの一団が、ひとかたまりになって、せまい劇場《げきじよう》の階段《かいだん》をのぼっていったころ、こちらは妙子である。  気を失うようにぐったりとしている文代のからだを抱《だ》いて、やっともとの楽屋へ帰ってきたところへ、バラバラとおおぜいの座員《ざいん》がおびえたような目をしてかけつけてきた。 「まあ、よかったわね。文代さん、一時はあたしどうなることかと思って、ずいぶん気をもんだわ」  いろとりどりの服装《ふくそう》をしたおどり子たちは、文代のぶじなすがたを見るとはや涙声《なみだごえ》なのだ。 「ありがとう。みなさんにもご心配をかけてすみませんね」 「あら、そんなことなんでもないわ、ねえみなさん。それよりもあなた、どこにもおけがはなくって」 「ええ、おかげさまで。それもこれもみんな妙子さんのおかげよ」  と、文代はあたりを見まわして、 「あら、妙子さんといえば、どこへいらっしゃったのかしら」 「ああ、あのつきびとのかた? あのかたならあたしたちにあなたのことをたのんでおいて、すぐまたここから出ていかれたわ。でもだいじょうぶよ、なにも心配なさることはないのよ。あたしたちがこれだけおおぜいついているんですもの。たとえ鉄仮面だってなんにもできやしないわよ。ねえ、みなさん」 「ええ、そうよ、そうよ。鉄仮面のやつが出てきたら、あたしこの爪《つめ》でひっかいてやるわよ」  なにしろ女の子ばかりの楽屋のことだから、そのにぎやかさときたらお話にならない。  こういうさわぎをあとにして、ふたたび楽屋から舞台《ぶたい》うらにさまよいでた妙子は、あちらのすみ、こちらのものかげと気をくばりながら、うす暗い大道具のあいだをひそかに歩いていた。  鉄仮面はまだ捕《つか》まらないとみえる。てんじょうをふみ抜《ぬ》くような荒々《あらあら》しい足音とともに、 「あっちだ、あっちだ!」 「いや、こっちにはいないぞ。どこかそのへんにかくれてやしないか」  などという声が、つつ抜けに聞こえてくる。  それに引きかえて、この舞台うらの静けさ。張りぼての岩だの松だの、やぶだたみだの、そういう大道具をおきならべたひろい舞台うらは、ガランとして人けもなく、高いてんじょうからぶらさがったはだか電球がぶきみにも、あたりにふしぎな暗い影《かげ》をなげかけている。  妙子はしのび足で、そういうさびしい大道具のあいだを歩いていたが、するとそのとき、コトリというかすかな物音。  ハッとしてすばやく物かげに身をひそめた妙子が、あたりの様子に気をくばっていると、そのとき舞台の上から、一本のつなをたよりにするすると、舞台うらへおりてきた者がある。  あの奇怪《きかい》な大道具係の仙公《せんこう》なのだ。  仙公はそんなところに妙子がかくれていようとは、夢《ゆめ》にも気がつかない。ひょいと身がるにとびおりると、そのままじっと床《ゆか》の上にうずくまってあたりの様子をうかがっている。その様子がただごととは思えない。  さっきから、この男をあやしいとにらんでいた妙子は、これを見るといよいよこのままではすまされなくなった。ソッとふところの短刀に手をかけると、そのままジリジリと、相手のうしろに近づいていく。仙公はまだ気がつかない。  あいかわらずクモのように、うす暗い床《ゆか》に身をふせたまま、じっとむこうのほうをにらんでいる。なにを見ているのだろうと、妙子が、その視線《しせん》をたどっていくと、むこうにあるのは、張りぼての大きな岩なのだ。 「ちょっと、あなた、こんなところでなにをしているのよ」  仙公はその声にぎょっとしたように顔をあげると、 「あ、妙子さん」  と、いったが、すぐ気がついたように、 「おじょうさん、ほらむこうの岩の上にみょうな物が……」 「みょうなもの? みょうな物っていったいなに?」 「ほら、ごらんなさい。なんだか変なものがフラフラうごいていますぜ」  妙子は半信|半疑《はんぎ》で指されたほうに目をやったが、ふいにサッと色を失ったのだ。まさしく、うす暗い舞台《ぶたい》うらの、こしらえものの岩のあたりに、なにやらえたいの知れぬしろものが、幽霊《ゆうれい》のようにフラフラと浮《う》いているではないか。 「あ、鉄仮面!」  と、妙子は思わず仙公にむしゃぶりついた。  そうなのだ。岩のかげから半身をのぞかせて、じっとこちらを見ているのは、たしかにあの鉄仮面。——半月型の唇《くちびる》が、あざ笑うように、ニュッとまくれあがって、つめたい鋼鉄《こうてつ》のお面がギラギラと闇《やみ》のなかにひかっている気味悪さ。  一しゅん、二しゅん。——  妙子と仙公のふたりは、じっと相手の様子をうかがっている。鉄仮面のほうでもうごかない。息づまるようなにらみあいなのだ。  だが、ふいに仙公がおやというように首をかしげた。 「どうも変ですね。おじょうさん、鉄仮面のやつ、いやにフラフラしているじゃありませんか」 「そうね」  と、妙子が首をかしげたとき、なんと思ったのかふいに仙公がつかつかと岩のそばへかけよると、いきなり鉄仮面に抱《だ》きついたから、おどろいたのは妙子だ。  あっというまもない。仙公のやつ、鉄仮面のからだを抱きすくめると、まるで頭がおかしくなったように、ゲラゲラと笑い出した。 「まあ、いったいどうしたの」 「大笑いだ。おじょうさん、ちょっとこっちへきてごらんなさい。まんまと一ぱいくわしやがった」 「鉄仮面じゃなかったの」 「鉄仮面は鉄仮面でも、ただのぬけがらでさあ、ほら、お面と二重マントをぶらさげてまんまと一ぱい食わしやがったのですよ」  妙子はきゅうに、からだじゅうの力が抜《ぬ》けるような気がした。がっかりしたように、仙公のそばへよってみるとなるほど、かれの手にあるのは、しわくちゃになった二重マントと、あの奇怪《きかい》なお面がただひとつ。 「ちくしょう。この調子でみると、鉄仮面のやつはとうの昔にずらかっちまったにちがいありませんぜ」 「お面をぬいで逃《に》げたのね」 「そうですよ。こんなお面をかぶってちゃ、すぐ捕《つか》まっちまいますからね。おや、これはなんだ」  仙公がふとみょうな声をあげたので、なにげなく妙子が見ると、二重マントの胸《むね》に一|枚《まい》の紙片《しへん》がピンで止めてあるではないか。手早くピンを外して読んでみると、   [#ここから1字下げ]  今日はみごとおれの負けだ。だがこのままではおかないぞ、もうひとりの犠牲者《ぎせいしや》を先にやっつけてから、いずれゆっくりと香椎文代の料理《りようり》に取りかかる。桑野妙子よ、おぼえていろよ。今夜の礼はきっとするぞ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]鉄仮面     「あっ」  と、妙子はそのおそろしい脅迫状《きようはくじよう》を読むと、思わずまっさおになった。 「おじょうさんのことが書いてありますね。おじょうさん気をつけなきゃいけませんぜ。あいつににらまれたら、どんなことになるか知れたものじゃありませんぜ」 「ええ」  と、妙子の返事もさすがにふるえている。 「それにしても、もうひとりの犠牲者とはだれのことだろう。いったい、鉄仮面のやつは何人|殺《や》っつけたら、腹《はら》の虫がおさまるのかな」  大道具係の仙公が思わず小首をかしげたときである。どやどやと入りみだれた足音とともに、警官《けいかん》の一行が屋根うらからおりてくる様子だ。  それを見るなり大道具係の仙公、二、三歩タタタと岩からかけおりると、 「おじょうさん」  と、ふりかえって、 「今夜はこれで失礼。あんたも、気をつけなさいよ。ご縁《えん》があったらいずれまた、お目にかかりましょう」 「ああ、ちょっと待って!」  と、おいすがる妙子の頭から、すっぽりと例の二重マントをおっかぶせると、そのままサッと身をひるがえして、舞台《ぶたい》うらの闇《やみ》のなかをはやいずこともなく。——  ふしぎなこの大道具係の仙公、いったい、かれは何者であろう。  それはさておき、しらせによって、矢田貝博士《やだがいはかせ》がかけつけてきたのは、それからまもなくのことだったが、そのときはすでにおそかった。鉄仮面のすがたはもはやどこにも発見されなかったのである。    東都劇場《とうとげきじよう》でこういう大事件《だいじけん》があってから四、五日後のことである。  話かわって、本所《ほんじよ》は小名木川《おなぎがわ》のかたほとり、小名木川が隅田川《すみだがわ》に流れこもうとするその三角地帯の上に、ふしぎな一|軒《けん》の洋館がたっている。もとはさる造船《ぞうせん》会社の技師長《ぎしちよう》が住んでいたのだが、その技師長が転任《てんにん》になって地方へ引っ越《こ》していったあと、ながらく空き家になっていたのを、ちかごろあたらしく移《うつ》ってきた人があるとみえて、ときおり、コンクリートの塀《へい》のなかへ出入りをする人間のすがたが見える。  表にかかった表札を見ると、   東座蓉堂《ひがしざようどう》  と、ただそれだけ。  東座蓉堂とはみょうな名前だが、きみたちはこの名前を見て何か思いあたるところがありはしないだろうか。  この物語の一番さいしょの場面で、思いがけなくとんできた短剣《たんけん》のために生命《いのち》をおとした、新日報社《しんにつぽうしや》の折井記者《おりいきしや》が、死のまぎわに血文字で床《ゆか》の上に書きのこしたのは、たしか、   テッカメン トハ ヒガシ  という文字ではなかったか。  してみると、この東座蓉堂なる人物こそ、あのおそろしい殺人鬼《さつじんき》、鉄仮面、そのひとではないだろうか。  これはさておき、近所ではだれひとり、この東座蓉堂という人を知っている者はない。旅行家だとかいう前ぶれで、おりおりすがたを消すかと思えば、またどこかから帰ってくる。色の浅黒い、目つきのするどい、やせぎすで背《せ》の高い、いかにも非常《ひじよう》にはげしい感じのする人物であるということだけがわかっている。  この謎《なぞ》のような人物のもとへ、ある日人目をしのぶように、たずねてきたひとりの女がある。黒っぽい洋装《ようそう》に、黒いレースのベールをかぶっているので、どこの何者とも見当がつかなかったが、玄関《げんかん》のベルをおすと、取り次ぎに現《あらわ》れた黒人の男に向かって、 「お父さまいらして?」  と、小声でたずねた。  ふしぎなことには、この洋館には主人の蓉堂をのぞいては、アリと呼《よ》ばれるこの黒人の使用人よりほかにはだれひとりいないのだ。 「ハイ、オイデニナリマス」と、そう返事をする。  前から、この婦人《ふじん》を知っていたのであろう。うやうやしく一礼すると、先に立って、そばの応接室《おうせつしつ》へ案内した。 「そう、それじゃね。あたしちょっとお目にかかりたいのだけど、そういってくださらない」 「ハイ」  黒人の男が出ていったあとで、ゆっくりと、ベールを取ったところを見ると、おどろいたことに、女|秘書《ひしよ》の桑野妙子ではないか。  妙子は椅子《いす》に腰《こし》をおろそうともせず、ぼんやり部屋《へや》のなかを見まわしていたが、そのとき、コツコツと、かるい足音が聞こえてきたかと思うと、やがてこの部屋へはいってきたのは、これこそだれでもない、この家の主、東座蓉堂なのだ。 「妙子」  と、蓉堂は妙子の顔を見ると、きびしい声でいった。 「何しにきた」 「お父さま、おねがいにあがりましたの」 「おねがい? どんなことだね」 「お父さま、おねがいですから、文代さんだけは助けてあげてくださいまし」 「なんだと?」  と、ふいに蓉堂の目がキラリとひかったかと思うと、唇《くちびる》がニューとまくれて、まるで狼《おおかみ》を思わせるようなするどい二本の牙《きば》があらわれる。だが、蓉堂はすぐさりげない顔色になると、 「なんのことだね。おまえのいうことはちっともわしにはわからんが」 「いいえ、いいえ、おかくしになってもだめですわ。あたしちゃんと知っています。いま世間をさわがせている鉄仮面とは、ほかでもない、お父さま、あなた……」 「ばか、何をいう!」  と、叫《さけ》んだかと思うと、東座蓉堂、いきなり、妙子のそばに飛んでいって、鋼鉄《こうてつ》のような腕《うで》で、妙子の口をふさいだ。 「ばかなことをいうものじゃない。こんなことをひとに聞かれたらどうするのだ」 「お父さま」  と、ふいに妙子はハラハラと涙《なみだ》をこぼすと、 「あなたは、まあ、なんというおそろしい人でしょう。あたしはあなたのご命令によって、新日報社へ女秘書として住み込《こ》みました。そして社の事情《じじよう》を、非常《ひじよう》にこまかくお父さまにご報告《ほうこく》もうしあげました。そのときにはなんのために、そんなことをするのか、じぶんでもわけがわからなかったのですけれど、いまこそはっきりわかりましたわ。あなたが鉄仮面なのです。そして、こんどのようなおそろしい計画をやりとげるために、あたしを新聞社へスパイとして住み込ませたのです」  妙子はそういうと、ワッと椅子のなかへ泣きふした。  蓉堂は苦い顔をして、無言のまま妙子の様子を見まもっている。妙子がお父さまと呼ぶからにはふたりは親娘《おやこ》でなければならぬはずだが、このふたりはちっとも似《に》ていない。似ていないばかりか、妙子がこれほど歎《なげ》き苦しんでいるのを見ても、蓉堂の顔には、すこしも父親らしい慈愛《じあい》のあたたかさは見られないのだ。 「妙子」  しばらくしてから蓉堂はきびしい声でいった。その口調には氷のようなつめたさがあった。 「もし、このわしが鉄仮面だとしたら、おまえいったいどうするつもりだ。おまえ、わしを警察《けいさつ》へ突《つ》き出《だ》すつもりかね」 「いいえ、お父さま」  と、妙子は涙《なみだ》にぬれた顔をあげると、はげしく首をふりながら、 「まさか。あたしにはそんなまねはできませんわ」 「そうだろうな、きっとそうにちがいあるまいな」  と、蓉堂はニヤリと笑いながら、 「かりにも親子と名のついたあいだがらだ。妙子、おまえは五|歳《さい》のときからわしに育てられた恩《おん》を忘《わす》れるようなことはあるまいな」 「お父さま、いまさらそんなことを……」 「よし、それならいい、それなら何もいうことはない。さあ、涙をふいてさっさとお帰り」 「だってお父さま、あたしにはもうこれ以上、こんなおそろしい役目はつとまりませんわ」 「妙子、おまえはいまなんといった。五歳のときに、みなしごになって、道ばたで飢《う》え死にしようというところを、このわしにひろわれた恩は、一生忘れぬといったではないか。その恩を忘れないなら、わしのいうことを聞いておとなしくお帰り。矢田貝博士はあいかわらずおまえを信用しているのだろうな」 「はい」 「それは、こうつごうだ。わしが鉄仮面であろうとあるまいと、一番おそろしい敵《てき》はあの矢田貝博士だ。あいつの情報《じようほう》はいつもくわしく知らせてくれなきゃならんよ」 「だってお父さま、あのかわいそうな文代さんを……」 「ああ、文代か。おまえあの娘《むすめ》のことがそんなに気になるか。よしよし、それでは安心のいくようにいってやろう。あの娘の身の上はここしばらくまちがいはあるまいよ」 「お父さま、それはほんとうですか」 「妙子」  と、蓉堂は、ふいに妙子の肩《かた》に手をかけると、じっと相手の目のなかをのぞきこみながら、 「鉄仮面はな、そのむかし、あいつらから世にもおそろしい裏切《うらぎ》りを受けたのだ。そのくるしみ、そのみじめな生活、それはとても、おまえなんかの想像《そうぞう》できるものではない。鉄仮面はいま、そのふくしゅうをしているのだ。敵は三人あった。宝石王《ほうせきおう》の唐沢雷太《からさわらいた》と、文代の父の香椎弁造《かしいべんぞう》、それからもうひとりの男だ。ふくしゅうは最後までやりとげねばならぬ。そうだ、だれがなんといおうとも」  蓉堂はきっと歯をくいしばり、かみつきそうな目で妙子の顔をながめていたが、きゅうにぐったりとしたように椅子《いす》に腰《こし》をおとすと、 「ははははは、わしとしたことがつまらない、まるでじぶんが鉄仮面ででもあるかのように、ははははは、妙子、もうお帰り。そしてわしのほうから呼《よ》ぶまで、この家の敷居《しきい》をまたぐのじゃないよ」 「はい」  と、妙子はしょんぼりと肩《かた》をすくめた。それから、なにかしら強いしめしをあたえられたように、このガランとしたさびしい応接間《おうせつま》を出ていったのである。  妙子が出ていくと、蓉堂はすぐむっつりと顔をあげてベルを鳴らした。ベルにおうじてすがたをあらわしたのは例の黒人の従者《じゆうしや》アリだ。 「アリ、用意はできているだろうな」 「ハイ」 「春雷丸《しゆんらいまる》はきょうの午後三時、横浜《よこはま》入港の予定だったな」 「ハイ」 「そして、牧野慎蔵《まきのしんぞう》はたしかにその春雷丸で帰国するんだったな」 「ハイ」 「まちがいあるまいな」 「マチガイハ、ゴザイマセン」 「ふうむ」  と、蓉堂はマントルピースの上の置時計をながめ、 「いま、ちょうど一時だ。それじゃぼつぼつ出発することにしよう」  むっくりと椅子から立ち上がったが、きゅうに思い出したように、 「ところでアリ、例の通信はたしかに打っておいたろうな」 「ハイ、打ッテオキマシタ。警視庁《けいしちよう》ノ名デ、春雷丸一等船客、牧野慎蔵アテニ。——」 「よろしい。それじゃ思い切ってすぐ決行しよう」  そういった蓉堂の顔には、これが人間の表情《ひようじよう》かと思われるほどの、はげしい憎《にく》しみとのろいの色があらわれていたのである。    春雷丸の一等船客、牧野慎蔵はさきほど受け取った通信文を、さっきからふしぎそうに、何度となく読み返していた。そこにはおよそ、次のような意味のことが書かれているのであった。 [#2字下げ]横浜上陸ハ危険《きけん》、本牧《ほんもく》沖マデ、ランチデ迎《むか》エニ行ク、ソレニテ下船上陸セヨ [#地付き]警視庁《けいしちよう》   「ねえ、船長、きみはいったいどう思うね。こんな通信が警視庁からまいこんで来たんだがね」  入港|準備《じゆんぴ》にいそがしい春雷丸の甲板《かんぱん》で、船長をつかまえた牧野慎蔵は、いきなりそう相手の意見をききただしていた。 「ははあ」  と、船長もすばやく、通信の文面に目をさらすと、 「みょうですな。この文面によると、何者かがあなたのご上陸を待って、危害《きがい》をくわえようとしているように思えますね」 「ふん、そんなことかもしれないな」  牧野は日やけのした、健康そうな顔をしかめると、ふといまゆをピクリとうごかした。年のころからいえば、このあいだ殺された唐沢雷太と、いくらもちがわないらしいが、見たところ、いかにもがっちりしたつらだましいは、ちょっとやそっとの危険にはびくともしないような、ふてぶてしさをしめしている。  それもそのはず、牧野慎蔵といえば政府《せいふ》の特別任務《とくべつにんむ》を受けて長らく海外にあって数々の冒険《ぼうけん》をやってきた人物なのだ。たいていのことにはおどろかないほどの強い人格《じんかく》が、いつの間にやらできあがっているのである。 「ふん、おおかたそんなことだろう」  牧野はにがにがしげに葉巻《はまき》の先をくい切りながら、青く晴れ渡った海の上をながめた。  なつかしい故国《ここく》の土は、いまやさわやかな青葉若葉につつまれて、すぐ目の前に見えている。何年ぶりかでふむ日本の土。——牧野のような冒険家にとっても、久しぶりに見るこの郷土《きようど》の景色は、いいしれぬなつかしさをもって胸《むね》にせまってくるのだが、しかし、いまやその故国へさえ帰ってくるのはむずかしいらしい。  牧野はちょっとゆううつそうにまゆをしかめたが、すぐあきらめたように、大きく肩《かた》をゆすると、口にくわえていた葉巻を海のなかに投げすてた。 「船長、それじゃランチがきたら知らせてくれたまえ。本牧はもうすぐだね」 「そう、もうすぐです。本牧|沖《おき》では検疫《けんえき》をうけねばなりませんから、しばらく停船します。下船されるなら、そのまにいくらもひまがありますよ」 「そう、それじゃよろしくたのむ。どれ、その間にちょっと荷物をまとめておこう」  牧野は気軽にそういうと、軽やかな歩調で甲板から船室のほうへおりていった。  牧野のような職業《しよくぎよう》にあるものは、味方も多かったが敵《てき》も多かった。だからいつなんどき、どんなことがおこっても、おどろかないだけの、修練《しゆうれん》はできているとみえる。そしてまた、仕事の性質上《せいしつじよう》、警視庁からこういう通信を受け取ることもすこしもふしぜんではなかった。そこに牧野の油断《ゆだん》があった。  むりもない、むかしのかれの友人、唐沢雷太のむごたらしい気のどくな死については、かれはまだすこしも知らなかったのだから。    やがて春雷丸は、おだやかな晩春《ばんしゆん》の波をけたてて東京|湾《わん》へはいってきた。  日はうららかに晴れわたって、かもめの群《む》れがマストの上にゴマをまいたようにまいくるっている。船のなかはしだいにせわしくなってきた。それは楽しい上陸をまえにひかえて、船客のみが知る、あわただしいうれしさだった。  やがて、本牧のはるか沖合《おきあい》で船はとまる。検疫官《けんえきかん》を乗せたランチが、白い波をけたてて近づいてくる。荷揚《にあ》げ船が巨鯨《きよげい》にたかるイルカのように、わらわらとまわりにむらがってくる。  こういうあわただしいさいちゅうに、水上|署《しよ》の旗を立てた一|艘《そう》のランチが、春雷丸の船腹《せんぷく》に横づけになった。と、見るとすぐに、警部《けいぶ》の服装《ふくそう》をした男が、なれた歩調で、タラップをのぼってくると、船長に面会をもとめる。 「はあ、牧野さんですか。牧野さんなら船室にいられるはずですが」  と、船長がこう答えているところへ、スポーティーなゴルフ服を着た牧野が、青年のように元気な歩調で甲板《かんぱん》へあがってきた。 「ああ警視庁《けいしちよう》のかたですな」  と、牧野は警部のすがたを見ると、すぐおうようにそばへ近づいてきた。 「はあ、そうです。牧野さんですな。さきほど打っておいた通信文をごらんくだすったことと思いますが」 「拝見《はいけん》しました。しかし、あれは、いったいどういう意味なんです。わしの身に危険《きけん》がせまっているなんて、それはどういうわけなんですか」  と、牧野はいくらか、うさんくさそうな目をして、ジロジロと警部の顔を見ている。警部の制服《せいふく》にはまちがいない。背《せ》の高い色の浅黒いりっぱな男だ。しかし、大きな黒眼鏡《くろめがね》をかけたところが、なんとなく牧野の気にくわないのである。 「お話しましょう。しかし、これはほかに聞こえることをはばかることですから」  船長はこれを聞くと、すぐそばをはなれた。 「それではごゆっくり。なに、まだ検疫にはそうとうひまがかかりますよ。下船される時はそうおっしゃってください」  船長のうしろすがたを見送っておいて、警部は牧野のほうへふりかえった。 「牧野さん、あなたは唐沢雷太氏をご存知《ぞんじ》でしょうな」 「ふむ、知っています。というより、むかし知っていたといいなおしたほうが正しいかな。で、あの男がどうかしましたかな」 「唐沢さんは殺されました」 「え?」 「そして、犯人《はんにん》は鉄仮面とじぶんでいっている男です」 「えーッ!」  それを聞いたとたん、牧野の顔からは、いままでのふてぶてしい表情《ひようじよう》はあとかたもなくなった。一しゅんの間、牧野はよろよろと甲板《かんぱん》の上でよろめくと、思わず手すりに身をささえて、 「そ、それはほんとうですか」 「ほんとうですとも。しかも、鉄仮面は唐沢さんを殺害《さつがい》したあと、亡《な》くなった香椎弁造氏の遺族《いぞく》をねらっています。香椎弁造——この人もたしかあなたと非常《ひじよう》に親しいあいだがらでしたな」 「ああ!」  牧野はふいに両手をあげて、空《くう》をつかむようなまねをした。だが、すぐ気がついたように警部《けいぶ》のほうへふりかえると、かみつきそうな顔になって、 「それで——それで、鉄仮面のやつが、このおれをどうしようというのです」 「鉄仮面は」  と、警部はひとことひとことくぎりながら、ゆっくりといった。 「あなたが上陸するのをまって、危害《きがい》をくわえようとしているらしいのです。それで、わたしがこうしてとちゅうまで、お迎《むか》えにあがったのです」  牧野はふいに、シーンとだまりこんだ。手すりにもたれたまま海の上を見ると、カモメの群《む》れ立つなかに水上|署《しよ》の旗を立てた一|艘《そう》のランチがプカプカと浮《う》かんでいる。そのすぐそばには、小さなモーターボートが浮いていて、そのなかに、頬《ほお》に大きな傷《きず》あとのある男と、十四、五|歳《さい》の少年が、なにかしらおもしろそうに話しているのが見えた。  牧野は何気なくその様子を見ていたが、きゅうに思い切ったように警部のほうをふりむくと、 「よろしい。それではすぐまいりましょう」 「おいでになりますか」 「行きます」  牧野はいったん船室へ引き返したが、すぐまた手ぶらであがってきた。 「荷物はボーイにとどけさせることにしました。いいでしょうな」 「けっこうです」  ふたりはちょっと船長にあいさつして、すぐスタスタとタラップをおりていった。やがてふたりがあの水上署の旗のひるがえっているランチに飛び移《うつ》ると、ランチはすぐ白い波をけたてて春雷丸のそばからはなれていった。  このとき、牧野が非常にみょうに思ったのは、このランチを運転している男だった。  だが、いまきいた鉄仮面のことで胸《むね》がいっぱいになっている牧野は、あまりふかくそのことを考えてみようともしなかった。警部はだまってランチのへさきに突《つ》っ立《た》っている。もし、そのとき、牧野が警部の顔をちょっとでも見ていたら、そこに、世にも奇妙《きみよう》な、冷たい微笑《びしよう》が浮かんでいることに気がついたことだろう。  ランチはしだいに陸に近くなっていった。  ——と、そのとき、牧野はふとふりかえって、あとから、プカプカとやってくる一|艘《そう》のモーターボートに目を止めた。そのなかには、さっき見た、頬《ほお》に大きな傷《きず》あとのある男と、十四、五|歳《さい》ぐらいの元気そうな少年が乗っているのだ。もし、このとき、桑野妙子がその場にいてこのふたりづれを見たら、どんなに驚いたことだろう。なぜといって、そのふたりとはだれあろう、まぎれもなく、大道具係の仙公と、そして御子柴進《みこしばすすむ》だったからだ。 「先生、先生」  ——と、進はおし殺したような小声でいった。 「すると、あの鉄仮面だとおっしゃるのですか」 「しっ!」  と、仙公はハンドルをにぎったまま、 「まだよくわからない。だが、とにかくあとをつけてみよう」  ああ、なんということだ。大道具係の仙公をつかまえて、進は先生と呼ぶ。いったいこの奇怪《きかい》な男は何者だろう。  二艘の船は糸を引いたように、静かに陸地へ近づいていく。その上には、カモメがいっぱい群《む》れとんでいる。 [#改ページ] [#小見出し]  恐怖《きようふ》の金庫|部屋《べや》  東京|湾《わん》の波をけたてて、すべるように、走っていく二|艘《そう》の船。前のランチに乗っているのは、黒眼鏡《くろめがね》の怪警部《かいけいぶ》に黒人男のアリ、それから帰国したばかりの牧野慎蔵《まきのしんぞう》。この怪ランチの後から、ひそかについて行くモーターボートのなかには、頬《ほお》に大きな傷あとのある大道具係の仙公《せんこう》と、御子柴進《みこしばすすむ》のふたりが、背中《せなか》をまるくして乗っているのだ。  しばらく二艘の船は、糸でつながれたように、おだやかな海の上を走っていたが、そのうちにふと、丸いガラス窓《まど》から外をのぞいた怪警部は、ドキリとしたようにまゆをうごかすと、 「あ、しまった」  やせぎすのするどい頬がサッと紫色《むらさきいろ》になる。 「え? ど、どうかしたのですか」  警部の声に、思わず腰《こし》を浮《う》かしたのはゴルフ服の牧野慎蔵。 「ごらんなさい。あとをつけてくるやつがある」 「なに、あとをつけてくるやつが……」  牧野もあたふたと立って、丸窓から外をのぞいてみた。 「あ、あのモーターボートは、さっき春雷丸《しゆんらいまる》のそばに浮《う》かんでいたやつですよ」 「そうです。ちくしょう、あとをつけてきやがったのだ」 「鉄仮面《てつかめん》の一味の者でしょうか」  そういった牧野の目のなかには、恐怖《きようふ》の色が、いっぱい浮かんでいる。さすが腹《はら》のすわった牧野も、鉄仮面だけは、よほどこわいらしい。しかも、そのこわい鉄仮面は、いまかれのすぐそばに立っているのに。——  怪警部はそれを聞くと、ニヤリと気味悪い微笑《びしよう》を浮かべながら、 「ナニ、だいじょうぶですよ。ご心配なさることはありません。牧野さん、ちょっと手を貸《か》していただきましょうか」 「手を貸す? どうすればいいのです」 「手を出してみてください」 「こうですか」  と、牧野はなにげなく右手を前に出した。 「いや、両方とも出してください」 「どうするんですか、いったい。こうすればいいのですか」  牧野が不安そうに、警部の眼鏡《めがね》のなかをのぞきこみながら、おずおずと、両手を前にさしだしたときである。  とつじょ!   警部がのどの奥《おく》で、奇妙《きみよう》な笑い声をあげたかと思うと、ガチャリ! 牧野の両手にはめられたのはがんじょうな鋼鉄製《こうてつせい》の手錠《てじよう》だ。 「あ、な、なにをするんだ!」  叫《さけ》ぶ牧野のあごへ、ふいにとんできたのは、さざえのような警部のこぶし。 「あっ!」  両手に手錠をはめられて、からだの自由をうしなった牧野慎蔵は、思いがけないこの襲撃《しゆうげき》に、ひとたまりもあったものではない。思わずヨロヨロと、せまい船室のひとすみに、しりもちついた。その上へいきなりおどりかかった怪警部。 「き、きみは気でも狂《くる》ったのか。いったい、おれをどうしようというのだ」  怒《おこ》ってものすごい顔をして、全身の力をふりしぼって起き上がろうとする牧野のからだを、しっかりとひざでおさえつけ、 「ナニ、なんでもありませんよ。しばらくこうして、静かにしていただきたいと思いましてね。ははははは!」  なんともいえない皮肉な声で笑い、あれ狂う牧野の口へ、グルグルグル、手早くさるぐつわをはめてしまったのだ。 「牧野さん、いやさ、牧野慎蔵!」  ふいに警部の声がガラリとかわった。牧野はビックリしたように相手の顔を見る。 「おまえさんにもにあわない、ずいぶんヘマをやったもんだね。あとから追ってくるのが、鉄仮面じゃねえ。鉄仮面は、ちゃんときさまのそばにおひかえだよ」  牧野はふいにヨロヨロとうしろへたじろいだ。大きく見ひらかれた両眼《りようがん》は、まるで幽霊《ゆうれい》をでも見るように、わなわなとふるえて、ひたいにはきゅうにみみずのような血管《けつかん》がふくれあがった。  怪警部はせせら笑って、その顔を見すえながら、 「牧野くん、ずいぶん久しぶりだったなあ。きさまがおれの顔を見忘《みわす》れるのもむりはねえ。しかしなあ牧野、きさま、おれの顔を見忘れても、この腕《うで》の傷《きず》にゃおぼえがあろうな」  怪警部はぐいと左の袖口《そでぐち》をまくりあげた。と、そこにあらわれたのは、まるで猛獣《もうじゆう》にでもかみきられたような、恐《おろ》ろしい傷あとなのだ。  牧野はそれを見ると、ふいに、悲鳴ににたうめき声をあげると、いきなり手錠《てじよう》のはまった両腕をあげて、しゃにむに、相手に打ってかかろうとする。 「何をしやがる」  と、ひらりと体をかわした怪警部、いきなり足をあげてからだのかまえのそなわらぬ、牧野の腰《こし》をドンとけったからたまらない。牧野がもんどり打ってのけぞるところへ、おどりかかった怪警部、そのまま牧野のからだをグルグルとしばりあげてしまった。 「ははははは、きさまでもやっぱりおぼえているとみえるな。そうだろうよ、忘れようたって忘れられまい。二十年まえのこの古傷。牧野、おれは墓場《はかば》からよみがえってきたのよ」  警部はふいにキリキリと奥歯《おくば》をならした。その面にはこれが人間の表情《ひようじよう》かと疑《うたが》われるばかりの、深いうらみと、憎《にく》しみの色が、いっぱい浮《う》かんでいるのだ。牧野は恐怖《きようふ》の雷《かみなり》にうたれたように、まっさおになってしまった。 「なあ、牧野、きさまはその後、あのモンゴル奥地のできごとを、いちどだって思い出したことがあるかい。いやいや、おそろしくて思い出せまい。しかしなあ牧野、おれは一日だってあの日のことを忘れたことはねえ。おれはきさまたちを信用していた。信用して何もかもうちあけたのだ。ところがどうだ。きさまたち、きさまと唐沢雷太と香椎弁造の三人は、そのおれを裏切《うらぎ》って、だまし討《う》ちにしてしまったのだ。牧野、きさまはよもや、あの日のできごとを忘れやすまいな」  牧野のからだがふいにブルブルとふるえた。 「ははははは! ふるえているな。ふるえているところをみると、やっぱりおぼえているとみえる。牧野、おれは執念《しゆうねん》の鬼《おに》になった。執念の鬼になって、きさまをとり殺すのだ。しかし、ただじゃ殺さねえ。さんざんきさまをくるしめて、そうだ、おれがモンゴルの奥地でなめさせられた、あのくるしみをきさまにも味わわせて、それからゆっくりきさまの生命《いのち》をもらうことにしよう。それに牧野、おれはきさまから聞かねばならぬこともあるのだ。わかっているだろうな、あのとき、きさまたちにうばわれた、あのすばらしい財宝《ざいほう》のありかを、きさまの口から聞かねばならぬ。それを聞くまで、きさまの生命は、この東座蓉堂《ひがしざようどう》があずかっておくから、まあ、そう思っていてもらいたい」  いったかと思うと怪警部、いや、鉄仮面の東座蓉堂はグサリとひと突《つ》き、突き通すようなまなざしで、牧野の顔をにらみすえたのである。   「おや」  と、進がふいに叫《さけ》んだ。 「どうしたのでしょう。きゅうに沖《おき》へ出はじめたじゃありませんか」 「ふむ、すこしみょうだね」  と、答えたのは大道具係の仙公である。 「ひょっとすると、こちらの追跡《ついせき》に気がついたのかもしれないね」  いいもおわらぬうちに、むこうのランチでパッと白い煙《けむり》があがったかと思うと、ズブリ、ボートのすぐそばに、何やら落ちてサッと白い水煙《すいえん》をあげた。 「あっ、あぶない!」  と、仙公はハンドルをにぎったまま、ハッとして顔をふせると、 「ライフル銃《じゆう》だ。ちくしょうッ! 気がつきやがった。進くん、気をつけたまえ。頭をあげちゃだめだぞ」 「あっ!」  またもや、白い煙がパッと見えたかと思うと、一発の弾丸《だんがん》が、プスリ、モーターボートのともに命中した。 「先生」 「——う、うごいちゃいけない。じっとしていたまえ。うごくとかえって、ねらわれるぞ。ちくしょうッ、逃《に》がすものか」  見ると、むこうのランチのへさきに、うずくまって、じっとこちらをねらっているのは、黒人男のアリだ。まっ白な歯を出して笑いながら、ねらいをさだめてまたもや一発。  白い波頭がサッとボートのともにあがったかと思うと、モーターボートがふいにグラリと横に大きくゆれた。 「先生、だいじょうぶですか」  と、さすがに進の声はふるえている。 「だいじょうぶ。あたるもんか、ちくしょうッ」  と、仙公が歯ぎしりをしながら叫んだ。  見ると怪ランチは気の狂《くる》った猛牛《もうぎゆう》のように、大きなずうたいを左右にゆすぶりながら、しだいしだいに、さびしい港外へと出ていくのだ。それを追っていくモーターボートも、ゼンソク病《や》みのように、すさまじいうなり声をあげていた。  おりおり、前のランチから、白い煙がパッパッとあがると、そのたびに、弾丸がボートの周囲に落下する。 「ちくしょうッ、おどろくもんか。どこまでもつけていってやるぞ」  仙公がバリバリと歯をかみ鳴らす音がする。  滝《たき》のようなしぶきが二|艘《そう》の船の周囲にうず巻《ま》いて、陽がクルクルと空に躍《おど》っている。二艘の船はまもなく港を出はずれて、ひろい外海へとすべり出した。波のうねりがしだいに大きくなって、落下するしぶきはいよいよ猛烈《もうれつ》になってくる。  それでも、仙公は、この追跡をあきらめようとはしない。どこまでも、どこまでも相手を追いつめていくつもりなのだ。  おそろしい追跡《ついせき》、生命《いのち》がけの競走だ。  ふいに、前のランチが、スピードを落とした。波間においでおいでをするように、大きなからだをゆすぶっている。これを見た大道具係の仙公、きゅうにいきおいを得たように、ダダダダダとすさまじい機関の音をさせながらそばへ近よっていったが、このときである。  ランチのへさきにうずくまっていた黒人男のアリが、あざ笑うような声をあげて、銃《じゆう》をとりなおしたかと思うと、しんちょうにねらいをさだめて、ズドンと放った一発。 「あっ、しまった!」  と、仙公が叫んだ。  と、そのとたん、ボートが二、三度グググと大きくゆれたかと思うと、ごうぜんたる音響《おんきよう》。  銀色のきらめきがさっと高い水煙《すいえん》をあげて、ボートはこっぱみじんとなってあたりに散らばった。  弾丸《だんがん》が貯油タンクに命中したのだ。  これを見るなり怪《かい》ランチは、しめたとばかりにカジを転じて、ダダダダダ、水を切りながら引き返してくる。  波間にはモーターボートの破片《はへん》が一面に散らばって、そのなかにガソリンが青いほのおをあげてもえている。 「アリ、うまくいったか」  ピタリ、怪ランチをとめた東座蓉堂、静かに舵輪《だりん》をはなして、へさきのほうへやってくる。 「タイテイ、ダイジョウブト思イマス、アノ爆発《ばくはつ》デスカラネ」  と、黒人男のアリは無表情《むひようじよう》な声でいった。 「いや、そうではない。おれのあとをつけてくるぐらいのやつだ。どういうはずみで助かっていないものでもない。もうすこし様子を見ていよう」  蓉堂のことばも終わらぬうちに、ふいにポッカリとランチのそばに浮《う》きあがった頭がある。進だった。 「アッ」  と、アリはそれを見るとあわてて、ライフル銃をとりなおしたが、蓉堂はそれをおさえながら、 「まあ、待て、あいつはどうやら子供《こども》のようだ。もうひとりいたはずだがなあ。ああ、そこへ浮《う》きあがったぞ」  なるほど、そのとき、散らばった木片《もくへん》のあいだから、ひょっこりと頭をもたげたのは大道具係の仙公。——だが、その仙公の顔をひと目みたしゅんかん、蓉堂は思わず、 「あっ」  と、叫《さけ》んでふなべりをつかんだのだ。  奇怪《きかい》とも奇怪、仙公の面からは、あのおそろしい傷《きず》あとは拭《ぬぐ》われたようになくなって、そのあとから現《あらわ》れた素顔《すがお》。——それはまぎれもなく、新日報社《しんにつぽうしや》のベテラン記者、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》ではないか。 「あ、き、きさまは三津木俊助!」  さすがの蓉堂もぼうぜんとする。  むりもない。かつて鉄仮面のために生きながら水葬礼《すいそうれい》にされた三津木俊助——その俊助が生きていて、大道具係の仙公に化けていたのだ。頬《ほお》の傷あとは、おそらく絵の具でかいた、こさえものだったのだろう。その絵の具が海水にとけて、思いがけなく正体をあらわした三津木俊助。 「大将《たいしよう》、ウチ殺シテシマイマショウ」  子分のアリがふたたびライフル銃《じゆう》をとりあげた。その銃口から数メートルとはなれないところに、俊助と進のふたりが必死となって泳ぎまわっている。のがれようとしてものがれるすべはない。  アリはじっとねらいをさだめる。おそろしい生命《いのち》のまとだ。一しゅん——二しゅん。……ああ、俊助と少年の生命は、いまやまったく風前の燈火《ともしび》。  だが、そのとき、蓉堂がいきなり、 「待て!」  と、叫んで、アリの腕《うで》をおさえたのである。    横浜《よこはま》港外の波のあいだで、黒人男のアリに銃口をむけられた俊助と進少年は、はたしてその後どうなったか。 「待て!」と、アリを制《せい》した鉄仮面東座蓉堂は、それからかれらをどうしまつしたか。——  だが、それらのことをお話するまえに、わたしはあらためて、二、三日後のことを、お話しなければならない。  あのできごとから二日ほどのちのこと、東京都民はまたもや恐怖《きようふ》のどんぞこにたたきこまれた。  鉄仮面の怪広告。……あの奇妙《きみよう》なおとぎばなしの広告が、またもや都内の各新聞紙の広告面に現《あらわ》れたのである。  こんどは猿《さる》カニ合戦だった。  欲《よく》ばり猿が、ひきウスにおしつぶされている場面で、例によってそのひきウスには、鉄仮面がかぶせてあり、そしておしつぶされた猿の顔というのが、なんと牧野慎蔵の写真になっているではないか。  しかもそこにはつぎのような例のふざけた歌が書いてあった。     欲《よく》ばり猿《さる》はひきウスに    押《お》しつぶされて死にました   牧野慎蔵もそのうちに    ペシャンコになって死ぬだろう    またもや鉄仮面の犯罪《はんざい》予告。  ふたたび、三たびも警察《けいさつ》をばかにするようなこの怪《かい》広告に、東京都民はもう生きたここちはない。唐沢雷太を殺害《さつがい》したやり口のすばらしさといい、また、たとえ失敗したとはいえ、東都劇場《とうとげきじよう》に香椎文代《かしいふみよ》を襲撃《しゆうげき》したあの大胆《だいたん》さといい、人びとはもう、鉄仮面のおそろしさを知りすぎるほど知っていた。  かれの予告はけっして、気まぐれでもなければコケおどしでもない。いったん予告したからには、あらゆる困難《こんなん》にたえても決行せねばやまないあのおそろしい鉄仮面。  警察でも、むろんやっきとなって、この広告主を捜索《そうさく》する一方、やりだまにあがった牧野慎蔵なる人物をもさがしはじめたが、そのうち意外にも、牧野はすでに横浜港外から、あやしいにせ警部によってつれさられたことがわかった。  なんということだ。鉄仮面はこんどは、あらかじめ犠牲者《ぎせいしや》を誘拐《ゆうかい》しておいて、さて堂々とあの怪広告を出したのである。  ひょっとすると、牧野はすでに、あの怪広告にあるとおり、ペシャンコになって殺されているのではなかろうか。  ところが、この広告が新聞に出た、その夜のことである。おなじみの新日報社にまっさおになってかけこんできた若い女性がある。ほかならぬ桑野妙子《くわのたえこ》だ。  妙子は息もたえだえに、編集長《へんしゆうちよう》の室へかけこむと、 「あ、編集長、た、たいへんです、たいへんです。三津木さんが……三津木さんが……」  と、いいつつ、バッタリそばにある椅子《いす》の上へたおれたから、おどろいたのは鮫島《さめじま》編集長だ。  ちょうど、そのとき、鮫島編集長は、またしてもあの鉄仮面の怪広告におどろいて、例の矢田貝博士《やだがいはかせ》を招《まね》いて重大会議中だったのだが、そこへこのさわぎなので、びっくりして博士とふたりでかいほうをしてやると、さいわい、妙子はすぐ気がついた。  妙子は気がつくと、いきなり鮫島編集長にすがりついて、 「たいへんです、編集長。三津木さんが、三津木さんが……」  と、またもや、同じようなことを、くり返している。 「桑野くん、どうしたというのだ。まあ、すこし気を落ちつけたまえ。三津木くんが殺されたことは、きみももうじゅうぶん知っているはずじゃないか」  編集長がたしなめるようにいうと、妙子はむちゅうになって首をふりながら、 「いいえ、いいえ、三津木さんはまだ、生きていらっしゃいます。わたし、たったいま、三津木さんのおすがたを見てきたのですわ。ああ、おそろしい、わたし、どうしよう」  と、まるで気も狂《くる》わんばかりのようす。このことばにおどろいたのは鮫島編集長。いやいや、編集長よりも、矢田貝博士のおどろきはもっとひどかった。博士はまるで、おどりかかるようないきおいで、妙子にむしゃぶりつくと、 「妙子……さん、ねえ桑野さん、それはほんとうかね。三津木くんのすがたを見てきたなんて、きみ、それはほんとうのことかね」  博士のことばの調子があまりはげしかったので、妙子はびっくりしたように、博士の顔をみなおしたが、どうしたのかきゅうにブルブルと身をふるわせると、 「ええ、ええ、ほんとうですわ。ああ、編集長、三津木さんを助けてあげてください。三津木さんを助けてあげて」  と、またもや、編集長の胸《むね》にすがりついて涙《なみだ》ぐむ。 「桑野くん、きみにもにあわない。いったいどうしたのだ。さあ、落ちついてよく話してみたまえ。ここには、こうして矢田貝博士もいらっしゃるし、もしきみのいうとおり、三津木くんがほんとうに生きているとすれば、どんなことをしてもすくい出さねばならん。いったい、三津木くんはどこにいるというのだ」 「三津木さんは……三津木さんは、鉄仮面のかくれ家に捕《と》らえられています」 「なに? 鉄仮面のかくれ家?」  と、矢田貝博士は、きゅうにひざを乗り出して、 「桑野さん、きみはまたどうして鉄仮面のかくれ家など知っているのだね」 「先生、それはいまもうしあげるわけにはまいりませんの。ある事情《じじよう》から……ええ、いうにいえない、あるおそろしい事情から、わたし、鉄仮面のかくれ家を知っていますの。いずれそのことは、またのちにお話しもうしあげますわ。いまはその時期ではないのです。でも、でも、わたしのことばを、お疑《うたが》いにならないで。わたし、いま、鉄仮面のかくれ家から、逃《に》げ出してきたばかりですわ。そして、そして三津木さんと、もうひとりの方、……たぶん、あの牧野慎蔵さんなんでしょうけれど、その方ともうひとり、御子柴進という少年が、とらわれの身になっているのを、たしかにこの目で見てきたのですわ」  ああ、妙子はひょっとすると、小名木川《おなぎがわ》のほとりにある、あの東座蓉堂のかくれ家へしのびこんで、そこではからずも、とらわれの身となっている俊助や進のすがたを見てきたのではなかろうか。  そうなのだ。しかし、あからさまにそれとはいえぬ身の秘密《ひみつ》、彼女はただ、そのかくれ家だけをうちあけて、俊助や進をすくい出そうとしているのだ。ああ、もし、東座蓉堂がこんなことを知ったら、彼女はどんなおそろしい目にあうだろう。  鮫島編集長は、きゅうにキッと目をかがやかせると、 「よし、わかった。いずれくわしい事情《じじよう》はあとで聞こう。それよりはいまただちにやらねばならぬことは、とらわれている人たちをすくい出すことだ。矢田貝博士、警察《けいさつ》へ知らせたほうがいいでしょうな」 「むろん、そうしなければなりません。だが、桑野さんや、その鉄仮面のかくれ家というのは、いったいどこにあるのだね」 「はい、隅田川《すみだがわ》のかたほとり、小名木川のすぐそばですの。東座蓉堂という家がそれですわ」 「よし」  と、編集長はすぐ電話機を取り上げたが、このとき、矢田貝博士はなんと思ったのか、ふいにスッと椅子《いす》から立ち上がると、 「こいつはたいへんだ。何しろ大事件《だいじけん》だ。編集長、それじゃきみはすぐ警官といっしょに、かくれ家をおそいたまえ。わしはちょっと考えるところがあるから、一足さきに失敬《しつけい》するが、そのかくれ家で、いずれのちほど会おう」  と、そういいすてると、矢田貝博士、妙子のほうへ、ジロリとするどい目をくれて、そのまま、あたふたと新聞社から出ていってしまった。例の長い山羊《やぎ》ひげをしごきながら。——    新日報社で以上のようなできごとがあってから、間もなくのことである。  こちらは、小名木川のかたほとりにある東座蓉堂のかくれ家。  妙子がじぶんを裏切《うらぎ》ったことを、知ってか知らずか、いましも外から帰ってきた蓉堂は、家のなかへはいってくると、例の黒人男の従者《じゆうしや》をつかまえて、いきなりこうたずねかけた。 「どうだ。お客さまがたは静かにしているか」 「ハイ、奥《おく》ノフタリハ、タイヘン静カデアリマスガ、金庫|部屋《べや》ノオ客サマハ、一日ジュウ、アバレ通シデコマリマス」 「よしよし、いまのうちにたんとあばれておくがいい。そのうちに、あばれようたってあばれるわけにいかなくなるからね」  と、蓉堂はそういうと、ニヤリと、うす気味の悪い微笑《びしよう》をもらす。笑うと上唇《うわくちびる》がピンとまくれあがって、ニューッとのぞく、二本の犬歯のものすごさ。いまにも、相手を取ってくおうとする、野獣《やじゆう》のような残忍《ざんにん》な表情《ひようじよう》だった。 「時に、あのあと、妙子はやってこなかったか」 「ハイ、オジョウサマハソノ後オ見エニナリマセン」 「そう」  と、蓉堂は、うたがわしげなまなざしで、黒人男の顔を見たが、すぐ気をかえたように、 「よしよし、それではひとつ、お客さまを見舞《みま》ってやろうかな」  そういいすてると、静かに居間を出て、廊下《ろうか》づたいに奥のほうへ行く。アリもそのあとについていった。ひろい邸内《ていない》は、うす暗く、しんとしずまりかえっていて、そのなかに長い廊下がいくまがりも、くねくねとつづいているのだ。  蓉堂は猫《ねこ》のように音のしない歩きかたで、その廊下をつたっていくと、やがてふと、とある部屋《へや》の前に立ち止まった。 「アリ、その窓《まど》をひらいてみろ」  そういわれてアリが、壁の上部についている小窓をひらく。蓉堂は、うす気味の悪い微笑《びしよう》をもらしながら、その小窓からそっとなかをのぞいた。  窓もなにもないまっ暗な部屋なのだ。その部屋のなかに、猛獣《もうじゆう》のようにクサリでつながれているのは、三津木俊助と御子柴進、ふたりともすでに覚悟《かくご》をきめているとみえて、蓉堂の顔を見てもおどろきもしなかった。 「よしよし、おとなしくしているな。いい子だ、いい子だ。いまにその苦痛《くつう》をなくしてやるからな」  蓉堂はあざ笑うような声をあげて、たからかに笑うと、ピシャリと小窓をしめ、 「アリ、このほうはだいじょうぶらしい。では、金庫部屋のほうへいってみよう」  と、いいながら、二、三歩いきかけたが、なにを思ったのか、ふいにあっと、ひくい叫《さけ》び声をあげて立ちどまった。 「ド、ドーシマシタカ」 「アリ、これを見ろ」  と、いいながら蓉堂が、廊下《ろうか》から拾いあげたのは、一本のヘアピン。蓉堂はするどいまなざしでじっとそのピンの頭についている真珠《しんじゆ》のかざりを見ていたが、 「アリ、このピンはどうしたのだ」 「ハイ、ソ、ソレハ……」 「これはたしかに、妙子のピンじゃないか。このピンが落ちているからには、妙子がここへやって来たのにちがいない。おまえ気がつかなかったか」 「ハイ、ゴ主人サマ」  と、アリはまっさおになった。そのとき、蓉堂のおもてにはげしい怒《いか》りの色が現《あらわ》れたからである。 「よしよし、おまえの知ったことではなさそうだ。しかし、これはよういならぬことだぞ。妙子が人知れずここへしのんできたとすると。——」  蓉堂はきっと唇《くちびる》をかみしめ、 「あんちくしょう、もしもへんなまねをしてみろ、ただではおかぬからな」  そういって、はげしくこぶしをふりまわしたが、すぐまた顔色をやわらげると、 「ナーニ、どうせたいしたことではない。あいつがなにをしようと、こちらにはそれだけの覚悟があるからな」  と、蓉堂は口のなかでつぶやきながら、きゅうに足を早めて、廊下の角をまがった。  と、そこには世にもふしぎな部屋《へや》がかれらの面前にあらわれたのだ。それはまるで刑務所《けいむしよ》の独房《どくぼう》のようにふとい鉄ごうしのはまった一室。そしてその鉄ごうしにすがりついて、まるでゴリラのようにわめき叫《さけ》んでいるのは、ほかならぬ牧野慎蔵である。 「おお、東座蓉堂!」  牧野は鉄ごうしのなかから、蓉堂のすがたを見つけると、かみつきそうな声で叫んだ。 「きさまは——きさまはいったい、どうしようというのだ」 「ははははは、牧野くん、どうだね、気分は。すこしはおれのことばをきいてみる気になったかな」 「ちくしょう! ひきょうもの! 鬼《おに》! 大悪人! きさまは、きさまは——」 「牧野くん、すこしことばをつつしんだらよかろう。鬼といい、悪人というのはみんなきさまのことだ。きさまと、唐沢雷太と、香椎弁造のことだ。牧野、その昔、おれがどのようなくるしみを味わったか、きさまにわかるまい」  と、蓉堂のおもてにふいにサッと、獣《けもの》のような表情《ひようじよう》が現《あらわ》れた。 「きさまのためにだまされて、モンゴル奥地《おくち》の、あの地下の洞窟《どうくつ》に、とじこめられたこの東座蓉堂。そして、そして、おれが発見したあの大金鉱《だいきんこう》のありかをしめす地図までも、きさまにうばわれてしまったこのおれのみじめさ! 牧野」  と、ふいに、蓉堂の目が、ギラギラとひかった。 「きさま、あの大金鉱のありかを、まさか知らぬとはいうまいな」 「知らぬ、知らぬ、きさまは夢《ゆめ》を見ているのだ。いや気が狂《くる》っているのだ。大金鉱など、だれがそのようなことを知るものか」 「いいや、知らぬとはいわせぬ。おれは瀕死《ひんし》の中国人から、その金鉱のありかをしめす地図をゆずられたのだ。それをきさまたちにうばわれて、そして、そのうえ、死ぬような目に——いやいや、死よりも数百倍もおそろしい目にあわされたのだ。しかも、きさまたちはその地図のおかげで大金鉱を手に入れた。そして、ひそかに不正の金でぜいたくな生活をしているのだ。牧野、その地図をかえせ。地図をかえせば、きさまの生命《いのち》はたすけてやる」  ああ、奇怪《きかい》。鉄仮面の過去《かこ》には、このようなすばらしい大|秘密《ひみつ》があったのだ。かれが執念《しゆうねん》ぶかく牧野一味をねらうのは、たんなる復讐《ふくしゆう》のためではなかった。そこには、世にもおどろくべき、大金鉱の秘密があったのだ。 「いいや、おれは知らん、おれは何も知らん。知っているとすれば、唐沢か、香椎だ。おれはただ、毎年かれらの手から、わけまえをうけとっていただけなのだ」 「よしよし、きさまはあくまでも、強情をはるつもりだな。きさまにはまだくるしみが足りぬとみえる。牧野、この部屋《へや》はただの部屋とはわけがちがうぞ。金庫部屋といってな、おれが工夫した世にもおそろしい部屋なのだ。いま、そのおそろしさをきさまに見せてやろう」  と、いいながら、蓉堂が壁《かべ》の上にある小さいボタンをおした。と、見よ、そこには世にもおそろしいことが起こったのである。  蓉堂がボタンをおすとともに、ジリジリ、ジリジリ、がんじょうな鉄のてんじょうが、四方の壁を伝わって、静かにすべってくるではないか。  鉄ごうしのほか、三方、あつい鉄壁でかこまれたおそろしい金庫部屋。その金庫部屋のてんじょうが、十センチ、二十センチと、壁をつたわっておりてくるおそろしさ。さすがの牧野も、そのとたん、髪《かみ》の毛がさかだつばかりの恐怖《きようふ》にうたれた。 「あははははは、どうだ、牧野。すこしはきさまにも、おそろしいということがわかったかい。あのてんじょうはな、いまにだんだんと下へおりてくる。一メートル、二メートル、三メートル——そらそら、いまにきさまの頭の上までおりてくるぞ。いやいや、ほっておけば床《ゆか》の上までおりてくるのだ。そしてきさまのからだは、ひきウスにおしつぶされた猿《さる》カニ合戦の猿のように、ペシャンコになってしまうのだ」  ああ、なんというおそろしさ、なんという残酷《ざんこく》さ。蓉堂のことばのごとく、おそろしいてんじょうは、ジリジリと落下してくる。牧野はいまや、気がくるうような恐怖にとらえられた。かれはまるで、金網《かなあみ》のなかに閉《と》じこめられた鼠《ねずみ》のように、クルクルと、部屋のなかを逃《に》げまわった。子供《こども》のように泣き叫《さけ》びながら、あてどもなく部屋のなかをかけずりまわった。  そのうちにも、あのおそろしい死のてんじょうは、刻《こく》一刻とさがってくる。牧野の頭髪《とうはつ》は、恐怖のためにきゅうにまっ白になった。 「助けてくれ、助けてくれ。おねがいだ、東座、助けてくれ」 「よし、助けろとあれば助けぬでもない。だが、牧野、そのかわり金鉱《きんこう》のありかをいうか」 「いう——いう、ああ、このてんじょうをとめてくれ。おそろしい、おそろしい」  てんじょうはすでに牧野の肩《かた》あたりまでおりている。床《ゆか》にひざまずいた牧野は、両手でそれをさしあげながら、涙《なみだ》を流して哀願《あいがん》する。意地もはじもわすれはてたように、顔じゅう、涙だらけにしてあわれみをこうのだ。  てんじょうはまた、十センチおりた。さらに二十センチ。—— 「よし、それじゃいえ、金鉱《きんこう》のありかは?」 「おれは知らん。ほんとうにおれは金鉱のありかを知らないのだ。しかし、しかし、地図のありかを知っている」 「その地図はどこにある」 「香椎が焼きすててしまった」 「きさま、この場におよんで、まだうそをいう気か」 「まあ、待て、待ってくれ。おれのいうのはこれからだ。地図は香椎が焼きすててしまったが、そのかわり、それと同じものを、あいつはじぶんの娘《むすめ》の肌《はだ》に、いれずみをしておいたそうだ」 「なんだと? 娘の肌に?」 「そうだ。娘の肌に地図のいれずみをしておいたのだそうな。おれはたしかに、その話を、唐沢雷太からきいたことがある」  ああ、なんとおそろしいことだろう。そしてふしぎなことだろう。  大金鉱の秘密《ひみつ》というさえ、すでに意外なのに、その秘密が、人間の肌に、いれずみでのこされているとは、なんというふしぎな話だろう。  しかし、これらのふしぎないきさつは、まもなく、きみたちのまえに、しだいに、あきらかになっていくはずなのだ。  さすがの東座蓉堂も、これを聞くと、ちょっとのあいだ、気をのまれたようすだったが、やっと正気にかえると、 「わかった、そうか。そしてその娘《むすめ》というのは、香椎|文代《ふみよ》のことだな」 「そうだろう。くわしいことはおれも知らんが、文代という娘があるなら、きっとその娘のことにちがいない。東座、さあ、おれの知っていることはぜんぶ話したから、このてんじょうをとめてくれ。ああ、く、くるしい」  てんじょうはすでに、腹《はら》の高さぐらいまでさがっている。牧野は、その下に、腹ばいながら、あえぎあえぎ、哀願《あいがん》するのだ。  だが、そのとき、ふいに、蓉堂のうしろからあわただしい足音が聞こえてきた。  ギョッとして、ふりかえってみると、なんということだ。あの密室に閉じこめられているはずの、三津木俊助と進が、それからいつのまにやってきたのか、妙子までそのなかにまじって、ドヤドヤとかけつけてきたではないか。 「あっ、妙子!」 「お父さま、ゆるして、ゆるして——」 「きさま、——きさまはとうとう、このおれを裏切《うらぎ》ったのだな」 「だって、だって、あまりおそろしいことをなさるのですもの。あ、三津木さん、そのボタンをおして、てんじょうをとめて」 「よし」  と、俊助がボタンをおしててんじょうをとめている間に、蓉堂はふいにヒラリと身をひるがえして、かたわらのせまい一室へとびこんだ。  それと見るなり、俊助と妙子、それから進も、一団《いちだん》となって、そのあとから、その一室にとび込むと、 「おい、蓉堂、いやさ、鉄仮面! きさま、この場におよんで、逃《に》げようとしても、それはだめだぞ。この屋敷《やしき》のまわりには、アリのはい出るすきもないほど、警官《けいかん》が取りまいている。ほらほら、きさまにはあの足音が聞こえないのか」 「お父さま、もうあきらめて、おとなしく、捕《つか》まってちょうだい。そしてもう、こんなおそろしいこと、なさろうなんて気をおこさないでね。ああ、ほらほら、警官の足音がだんだん近づいてくるわ」  妙子のことばどおり、入りみだれた足音が、ドヤドヤと廊下《ろうか》のむこうから近づいてくる。  ああ、さすがの鉄仮面ももはや絶体絶命《ぜつたいぜつめい》、かれはいまやまったく袋《ふくろ》のなかの鼠《ねずみ》となったのだ。だが、そのとき、せまい部屋《へや》の、中央に立っていた蓉堂が、ふいに、カラカラと大きな笑い声をあげると、 「おい、俊助、妙子。きさまたち、このおれがムザムザ警官の手に捕《と》らえられると思っているのかい。おい、これを見ろ、このボタンをこうおせば——」  いいつつ、蓉堂がそばのボタンをおすやいなや、ああ、これはいったいなんということだ。奇怪《きかい》ともなんとも説明できないようなふしぎなことが、その一室に起こったのだ。 [#改ページ] [#小見出し]  空中の大活劇《だいかつげき》  蓉堂《ようどう》の逃《に》げこんだ一室というのは、たいへんみょうな部屋《へや》だった。  まるで危険《きけん》な実験室かなにかのように、ほかの建物から独立《どくりつ》していて、これを外部から見ると、ガスタンクのような円い筒形《つつがた》の屋根が、空高くそびえているのである。ちょうど両国《りようごく》の国技館《こくぎかん》のように、球のような丸い型のてんじょうが、隅田川畔《すみだがわべり》の空高くそびえているところは、たしかに一つのりっぱなすぐれた建物だったが、いま、このてんじょうに世にも奇妙《きみよう》なことが起こったのだ。  ギリギリギリ。大地をゆるがすような物音が、あたりの空気をつんざいたかと思うと、とつじょ、パクリと球状の屋根がまっ二つにわれたのだ。 「あっ」  怪屋《かいおく》のまわりを、いかめしくとりまいていた警官《けいかん》たちが、これを見て、思わず、息をのんだときである。そこには、さらにふしぎなことが持ちあがった。まっ二つに割《わ》れた屋根の下から、なにやら変に大きな、円《まる》みをもった物が、まるで入道雲のようにむくむくと湧《わ》きだしてきたではないか! 「なんだ、あれは!」 「家がつぶれるのではないか!」  なんともいえないへんな感じなのだ。  まるで巨大《きよだい》な海坊主《うみぼうず》のようなものが、フワリフワリと、屋根の下からせり出してくる。真昼のお化けだ。まるでなんともいえない気持ちのわるいふしぎな異変《いへん》なのだ。警官たちが、われを忘《わす》れて思わず手に汗《あせ》をにぎったときである。  ギリギリギリ、ギリギリギリ。  すばらしいものおとが大地をゆるがしたかと思うと、巨大な海坊主が屋根をはなれて、やがてそこに、ポッカリと浮《う》きあがったのは一|個《こ》の軽気球! 「わあッ」  と、すさまじい叫《さけ》び声が隅田川の両岸からおこる。警戒《けいかい》にあたった警官も、道行く人びとも、思いがけない悪魔《あくま》のカラクリに、思わず目をみはってうしろへたじろいだ。  そのおどろきをしり目にかけて、いまや軽気球は空高く、ユラリユラリとのぼっていくではないか。しかも、その軽気球にのっているのは、鉄仮面《てつかめん》をはじめとして、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、桑野妙子《くわのたえこ》、御子柴進《みこしばすすむ》少年の四人なのだ。  ああ、なんということだ。鉄仮面が逃《に》げこんだあの密室《みつしつ》というのは、かねてからかれが用意をしておいた軽気球|部屋《べや》だったのだ。鉄仮面が、ボタンをおすと同時に、かれらのまわりをスッポリとつつんだのは、軽金属《けいきんぞく》からできているふしぎなあみのかご。——と思うまもなく、床《ゆか》ごと、ユラリユラリと浮《う》きあがって、俊助たちがハッと気づいたときには、すでにおそく、かれらのからだは白雲にのって、空高くはこび去られるところだった。 「うわッ! 軽気球だ、軽気球だ!」 「鉄仮面が、軽気球に乗って逃げるのだ」  隅田川のほとりはたいへんなさわぎ、道行く人も、車も、みんな足をとめて、あんぐりと口をひらいて空をあおいでいる。川を上下する舟《ふね》も、思わずロをあやつる手を忘《わす》れて、このすばらしい悪魔《あくま》の逃亡術《とうぼうじゆつ》に見とれてしまった。  そのなかをあわてふためく警官の群《む》れ。さわぎはそれからそれへとつたわって、たちまち東京じゅうにひろがったからたまらない。新聞社の写真|班《はん》が自動車にのってかけつけてくる。飛行場へは電話がとぶ。たちまち隅田川の両岸は、おびただしいやじうまでうまってしまった。そのなかを軽気球は、おりから北のそよ風にのって、ゆうゆうと海のほうへ吹き流されていくのであった。 「や、や、これは!」と、さすがの俊助も、思わずかごのなかでよろめいた。外を見れば、あたりはただひろびろとした一面の大空。下を見おろせば、帯のような隅田の流れ。国技館《こくぎかん》も、丸ビルも、まるでアリづかのように小さく見える。俊助は唇《くちびる》までまっさおになってしまった。 「きさまは——きさまは」  と、いったが、あまりにもズバ抜《ぬ》けた悪魔の知恵《ちえ》に、あとのことばもつづかない。ただもう肩《かた》で息をするばかり。そのそばには、妙子と進が、これまた、まっさおになったまま抱《だ》きあってふるえている。 「はははははは、おどろいたか三津木俊助。飛んで火に入る夏の虫とは、まったくきさまのことだな。きさまのほうに探偵《たんてい》の知恵があれば、おれのほうには悪魔の用意がある。どうだ、たまげたろう。ははははは」  と、ゆらめくかごのなかに仁王立《におうだ》ちになった鉄仮面の東座《ひがしざ》蓉堂、まるで悪魔のように、ものすごい声をあげて笑ったが、その目をふと、かたわらにふるえている妙子のほうに向けると、 「妙子! おまえはよくもこのおれを裏切《うらぎ》ったな」  と、いかにも憎々《にくにく》しげにいう。その声をきくと、妙子は蛇《へび》にみいられたように、肩をすぼめてブルブルふるえあがった。 「だって、だって、お父さま」 「いいや、おれはもう、おまえのいいわけなんか聞きたくもない。幼《おさな》いときからそだてあげたおれの恩《おん》も忘《わす》れて、おまえはこの父を探偵《たんてい》に売ったのだ。妙子、そのむくいがどんなものであるか、おまえにはよくわかっているだろうな」 「お父さま、ゆるして、ゆるして」 「ゆるせ、ふふん」  と、蓉堂は、例の狼《おおかみ》のような犬歯を出してあざ笑うと、 「おまえもよっぽど虫のいい女だね。おれをこんな危険《きけん》なはめにおとし入れながら、ゆるせとはよくいえたものだ。いいや、ゆるすことはできん。こうなればおまえもかたきのかたわれだ。香椎弁造《かしいべんぞう》の娘《むすめ》の文代《ふみよ》といっしょに、おまえにもおそろしい刑罰《けいばつ》を加えてやるのだ」  文代ときくと、妙子はいよいよまっさおになった。 「あれ、お父さま、かんにんしてください。あたしはどんな罰でも受けます。お父さまを裏切《うらぎ》った、わるい娘ですもの。どのようなおそろしい刑罰でも受けます。でも、でも、あの罪《つみ》のない文代さんだけは、どうかかんにんしてください」 「ふふん」  と、蓉堂はひややかに笑いながら、 「妙子、おまえ文代のことがそんなに気になるのかい」 「はい、気になります。あんなにやさしい、きだてのよいおじょうさんを、お父さんはなんだってそんなにおいじめになりますの。あたし、あの方がおかわいそうで、なんだか、なんだか、他人のような気がしないのですわ」  いったかと思うと、妙子はワッとばかりにかごのふちに顔をふせてむせび泣くのだ。  こういう父娘《おやこ》の押《お》し問答を、かたわらで聞いていた三津木俊助、無言のまま、いそがしく頭のなかで考えている。蓉堂のやつ、なおも執念《しゆうねん》ぶかく、文代の生命をねらっている。してみると、かれにはぶじに、この軽気球を脱出《だつしゆつ》する自信があるにちがいない。してみると、じぶんだって、かれといっしょにぬけだす機会がないともかぎらないのだ。しかし、この悪党《あくとう》め、いったい、どのようにしてこの大空から逃《に》げ出すつもりだろうか。下を見れば、軽気球はすでに東京からはるか南に流されたとみえて、ここはいずこか海と陸とのさかい目を、ただあてもなく、ユラリユラリと流れていく。さすがの俊助も、これを見ると、思わず絶望《ぜつぼう》のうめきごえをあげた。東座蓉堂は、妙子との押し問答のあいだにも、ひそかに目のはしからこういう様子をうかがっていたのであろう。ふいにわははははと、腹《はら》をかかえて笑うと、 「おい、三津木俊助、きさまはいったい、このおれがどうして軽気球からのがれ去るかとあやしんでいるだろうが、どっこい、心配ご無用。おれにはおれで、ちゃんと、考えがあるんだからな」 「それはけっこうだ。だがな東座蓉堂、きさまに逃げ出すチャンスがあるなら、われわれにだってそのチャンスがないわけじゃあるまい。死なばもろともというが、おれはきさまのような悪党《あくとう》といっしょに死ぬのはいやだから、きっとこの軽気球を抜《ぬ》け出してみせる」 「わははははは、いいかげんなことをいってるぜ。きさま、おれのするまねをしようと思っているのだろうが、どっこい、そうはさせぬ」  と、いったかと思うと、東座蓉堂がポケットから取り出したのは、一ちょうのピストル。それをピタリと俊助の鼻先につきつけたのだ。  ああ、鉄仮面はここで、三津木俊助を射殺《しやさつ》しようとするのだろうか。さすがの俊助も、思わずサッと土色になる。じぶんが、ここで殺されるのはかまわない。しかし、じぶんが死んでしまったら、妙子や御子柴進はどうなるのだ。それから執念ぶかくつけまわされている、あのかれんな香椎文代の生命《いのち》はいったいどうなるのだ。それを思うと、さすがの俊助の顔にも、べっとりと汗《あせ》が浮《う》かんでくる。恐怖《きようふ》を知らぬこの勇敢《ゆうかん》な新聞記者も、思わずガチガチと歯を鳴らすのだ。 「ははははは、おどろいたな三津木俊助。こんどこそさすがのきさまにも、のがれるすべのないことがハッキリとわかったとみえるな。いや、きさまはまったくすばらしい男だ。いつか袋《ふくろ》づめにして、水葬礼《すいそうれい》にしてやったはずだのに、いつのまにやら、その袋をやぶって生きかえってきたばかりか、化けも化けたり大道具係の仙公とは、まったくこのおれもかぶとをぬいだよ。敵《てき》ながらもあっぱれなもんだ。しかしなあ、三津木俊助、ものにはほどというものがある。おれはもうきさまにじゃまだてされるのはあきあきしたんだ。だから、ここでドンとぶっ放して、あっさりきさまの生命をもらおうかと思っているんだ。大空の犯罪《はんざい》か。わっははははは、三津木くん、こいつはすばらしい特ダネになるぜ」  と、鉄仮面はまるで勝ちほこって、おもしろそうにぶきみな声をあげてうち笑う。俊助はこぶしをにぎりしめたが、どうすることもできない。うごけば、相手の手にしているピストルが火ぶたを切るだろう。  向かい合うこと一しゅん、二しゅん。——と、このときである。さっきから恐怖のために打ちひしがれたように、かごのそこにひれ伏《ふ》していた御子柴進のからだが、ジリジリ、ジリジリと鉄仮面の足もとにむかってすすんで行く。  それと気がついた妙子と俊助、思わずあっと息をのみこんだが、そのとたん、進のからだがイナゴのようにパッととびあがった。ピストルをにぎった鉄仮面の胸《むね》にとびついたのだ。 「あっ」  と、ふいをくった鉄仮面、思わずドドドドドと二、三歩うしろへたじろぐそのすきに、俊助のからだがまりのように相手にむかっておどりかかっていった。 「ちくしょう」  と、歯ぎしりをする鉄仮面。それにむしゃぶりついた進と俊助のからだが、三人いっしょに組み合ったまま、かごのなかにころげる。そのひょうしに軽気球がグラリとかたむいて、いまにも外へ投げだされそうになった妙子は、 「あれ!」  と、叫《さけ》ぶと、むちゅうになってかごのふちにすがりついた。  しかし、こちらはそれどころではない。 「先生、先生、ピストルを、早く、早く」  鉄仮面に組みしかれた進が、あえぎあえぎ叫ぶのだ。 「よし」  と、叫んだ三津木俊助。鉄仮面の右腕《みぎうで》にむしゃぶりついてピストルをうばおうとする。そうはさせまいと、あらそう蓉堂。一ちょうのピストルをめぐって、三人の手と手と手が、からみあってものすごい戦いを演《えん》じている。そのうち、どうしたはずみか、ピストルの銃口《じゆうこう》が、真正面に俊助の鼻先へきた。と、そのとたん、 「ちくしょうッ!」  と、叫んだかと思うと、蓉堂の指が引き金を引いたからたまらない。  ズドン! と一発、弾丸《だんがん》がとび出したかと思うとさにあらず。  シューッ! というような物音とともに、何やらあまずっぱいようなにおいが、いきなり俊助の鼻をついた。 「あっ!」  と、叫んだ俊助が、思わず顔をそむけようとしたが、すでにおそく、ツーンと異常《いじよう》なにおいが鼻から頭へ抜《ぬ》けて、クラクラとしたかと思うと、俊助のからだはどうとその場にころがってしまった。催眠《さいみん》ピストルなのだ。  ピストルのなかからとび出したのは、弾丸のかわりにエーテルなのだ。そのエーテルのあまずっぱいにおいが、俊助の脳髄《のうずい》をこんこんと眠《ねむ》らせてしまったのである。 「ははははは、もろいやつだ」  と、かごのそこからやおらおきあがった鉄仮面の東座蓉堂、こきみよげに、俊助のからだを足でけっていたが、ふとあたりを見ると、進のすがたが見あたらない。 「おや、あの小僧《こぞう》はどうした」  妙子は恐怖《きようふ》のあまり身うごきもできず、大きく目をみはったまま返事もしない。  まさか、軽気球から飛び出したわけでもあるまいと、蓉堂がキョロキョロとあたりを見まわすと、これはなんということだ。いつのまにやら進は、するするとつなを伝わって、上なる気球の表面にしがみついているではないか。  危《あぶ》ない、危ない!  一歩身をあやまれば、下にはただひろびろとした大空しかない。そのなかに浮《う》きあがった気球の表面に、まるで一|匹《ぴき》のクモででもあるかのように、進はピッタリとすいついているのだ。  これにはさすがの鉄仮面もおどろいた。 「小僧、そんなところでなにをしているのだ。あぶない、落ちるぞ。早くこちらへおりてこい」 「いやだ」  と、進は、気球をつつむあみのなかに身をたくしたまま、あざけるような笑い声を上から落とす。 「おまえが、もし三津木先生を殺すようなことがあれば、ぼくはこの気球に穴《あな》をあけてやる」  と、いったかと思うと、進が、ポケットのなかから取りだしたのは、一ちょうの海軍ナイフ。それをひらくといまにも気球に突《つ》っ立《た》てそうにしたから、おどろいたのは鉄仮面だ。  もし、気球に穴をあけられたら、それこそなにもかもおしまいなのだ。浮揚力《ふようりよく》をうしなった軽気球は、つぶてのように落下していくにちがいない。 「ばか、なにをするのだ。そんなことをすればおまえの生命《いのち》もないのだぞ」 「覚悟《かくご》のうえだ。どうせ死ぬなら、ぼくは悪人を道づれにしてやるのだ。それとも、われわれを安全なところにおろしてくれるか」  ああ、なんという大胆《だいたん》さ。かよわい少年の身でありながら、こんどはぎゃくに鉄仮面を脅迫《きようはく》しようというのだ。 「わはははは」  と、鉄仮面はそれを聞くと、腹《はら》をかかえて笑いながら、 「おい、小僧。きさまはそれじゃ、軽気球というものをよく知らないとみえるな。軽気球というやつは、飛行機などとちがって、自由に操縦《そうじゆう》することができるものじゃないぜ。とびだしたが最後、お先まっ暗、どこへとんで行くかしれたものじゃないのだ」  それを聞くと、さすがの進もまっさおになった。 「それじゃ、おまえはどうして逃《に》げるのだ」 「おれか、おれは、こうして逃げだすのさ」  と、いったかと思うと、鉄仮面は、かたわらにあった大きなカバンをひらいて、なかから取り出したのはパラシュート! 「あっ!」  と、さすがの進も、それを見るとまっさおになる。鉄仮面はゆうゆうとそのパラシュートを背《せ》に負うと、 「おい、小僧、きさま、気球に穴をあけるなり、どうなり勝手にしろ。どうせこの気球は空の墓場《はかば》なんだ。さあ、妙子、おまえだけはいっしょにつれていってやる」  と、いったかと思うと、東座蓉堂、いやがる妙子のからだを横抱《よこだ》きにしたまま、ひらり、身をおどらせてとんだ。  ああ、気球から空中におどりだしたのである。と、見ると、小石のようにふたりのからだは青い大空を落下していったが、やがて、キノコのようなパラシュートがパッとひらいたかと思うと、ユラリユラリと空中を歩いてでもいるように、はるかな白雲のなかにすがたを消していく。  そのあとには、こんこんと眠《ねむ》りつづけている俊助と進のふたりを乗せた軽気球が、フワフワと風のまにまに流されていくのだ。  空のなかにまるで一点の墨《すみ》をおいたような軽気球。いったい、軽気球はどこまで流れていくのだろう。    鉄仮面はこうして、妙子を抱《だ》いたまま、パラシュートによって軽気球からのがれていった。  さてそれから二、三日あとのことである。文京区小《ぶんきようくこ》日向台町《ひなただいまち》にある、矢田貝修三《やだがいしゆうぞう》博士《はかせ》の邸宅《ていたく》のまわりは、なんとなくものものしい警戒《けいかい》ぶりであった。矢田貝博士は数年前から、小石川《こいしかわ》に住んでいるのである。その邸宅はたいしてひろいわけではなかったが、和風と洋風をミックスした、いかにも学者のすまいらしい、落ちついた感じの邸宅だった。家族のいない博士は、そこでひとりの使用人とともに、さびしい日を送っているのだが、一昨日から、この邸宅のなかにめずらしい客があった。  ほかでもない、香椎文代なのだ。文代がいったい、どうしてこの邸宅に住んでいるのか。それはだいたいつぎのようなしだいなのだ。  隅田川畔《すみだがわべり》にある東座蓉堂の邸宅が、妙子の密告《みつこく》によって、警官《けいかん》に急襲《きゆうしゆう》された日、人びとはそこで意外な人物を発見した。横浜《よこはま》港外から連れ去られた、あの帰国したばかりの牧野慎蔵《まきのしんぞう》だった。  牧野は、おそろしい金庫|部屋《べや》のなかで、危《あや》うくペシャンコにされるところだったが、俊助のおかげでかろうじて生命《いのち》をとりとめたところを、かけつけた警官の手によってすくい出されたのだ。  その牧野は、おそろしさとくるしみのために、ほとんど気が狂《くる》ったようになって、警官の質問《しつもん》にたいしても、はかばかしく答えることさえできなかったが、ただひとこと、香椎文代の生命があぶないということだけを、きれぎれにもうしたてた。  そうでなくても、以前ああいう劇場《げきじよう》の一大|事件《じけん》があったことなので、警察《けいさつ》ではひそかに文代の身のまわりにたいして警戒をおこたらなかったが、こまったことには、文代はみなしごである。だれひとり、親身になって保護《ほご》してやろうという者がないのだ。  まさか警官が、いつもそばについているわけにもゆかないし、ほとほとこまっているところへ、みずからその保護者の役を買って出たのが矢田貝修三博士なのだった。  博士は文代を引きとっておいて、鉄仮面をひき寄《よ》せるつもりだといっていた。警察でも矢田貝博士の邸宅に住まわせることにして、その邸宅のまわりには、たえず私服の刑事や警官たちが張り番をしているのだ。ところが今朝のことである。  とつぜん、その矢田貝博士のところへ、一通の手紙がまいこんできた。 [#2字下げ]今夜、香椎文代をちょうだいに行くからくれぐれも気をつけたまえ    矢田貝修三様 [#地付き]鉄仮面    その手紙にはこんなことが書いてある。ああ、なんという大胆《だいたん》なふるまいだろう。鉄仮面は、またもや犯罪《はんざい》の予告をしてきたのだ。  ふつうならば、こんなことにおどろく矢田貝博士ではなかったが、しかし、いままでたびたび、鉄仮面のためにくるしめられてきた矢田貝博士、これを見ると、ただちに警視庁《けいしちよう》へ電話をかける。れんらくをうけて急いでかけつけてきたのは、警視庁きっての腕《うで》ききといわれる等々力警部《とどろきけいぶ》だ。  等々力警部というのは、この物語に顔を出すのははじめてだが、まえから三津木俊助とはつきあいもあり、なかなかのやり手という評判《ひようばん》がある。 「ちくしょう。すると鉄仮面のやつ、まんまとあの軽気球からのがれ出したとみえますね」 「どうもそうらしい。そうそう、軽気球といえば、三津木くんや、進くんのその後の消息はわかりませんか」 「それがどうも、よくわからないのですよ。なんでもあの軽気球は、遠州灘《えんしゆうなだ》付近で、海上についらくしたらしいんですが、そのまえに、パラシュートによってのがれ去った者があるらしいんです。あのへんの漁師《りようし》でそれを見た者があるんですがね。しかしそいつが鉄仮面だったか、または三津木俊助くんだったかはいまのところまったく不明なんですよ」 「いや、それはおそらく、鉄仮面のやつにちがいありませんよ。こうして脅迫状《きようはくじよう》をよこしたところをみればね」 「そう、とにかく、こういう手紙がきた以上、いちおう邸宅《ていたく》をげんじゅうに警戒《けいかい》しなければなりません」  そこで、等々力警部と矢田貝博士は、いっしょに邸内を見まわったが、べつに変わったこともないらしい。 「このぶんなら、まずだいじょうぶでしょう。なあに、鉄仮面のやつが近づいたらたちどころに捕《と》らえてしまうばかりです。ところで、この脅迫状のことを文代さんは知っていますか」 「いや、あれにはまだなにもしらせてありませんのでね。よけいなことをいって、心配させるのもかわいそうだと思いましてな」 「そうですね、そのほうがよろしいでしょう。なあに、そのかわりわれわれがじゅうぶん注意していればよろしいんですからね。今夜はひとつ、寝《ね》ずの番をしようじゃありませんか」  そこで、等々力警部は張りこんでいる部下の刑事《けいじ》連中に、手くばりを命ずると、みずからは、文代の寝室《しんしつ》の前にどっかとじんどって、矢田貝博士とともに徹夜《てつや》の番の用意なのだ。  文代にはなんとなくこの様子が異様《いよう》に見えたのだろう。 「あら、先生、今夜はどうかしたんですか」  と、不安そうに、博士の顔をあおぎ見る。文代は矢田貝博士のことを先生と呼んでいるのだ。 「いや、文代さん、なにも心配することはありやせん。さあさ、お休み。それからね、今夜はこのドアを開け放しにして寝るんだよ」 「まあ、どうしてでございましょう。ああ、きっとなにかあるんですわね。先生、鉄仮面が——やってくるんでしょう」 「ばかな、そんなことが、あるものか。さあさ、心配することはないから、これを飲んで、ぐっすりおやすみ」  と、いつも寝《ね》るまえに飲むことにしている牛乳《ぎゆうにゆう》を、コップについでやると、文代は、それでも、すなおにそれを飲みほした。 「先生、それではおやすみなさい」  と、文代はかくしきれぬ不安に、面をくもらせながら、ベッドのなかにもぐりこんだが、と思う間もなく、スヤスヤとやすらかな寝息がもれてきたのである。 「ああ、たあいもないものだ。薬がよくきいたらしい」  と、博士がひとりごとをもらすのを聞いた等々力警部、びっくりしたように、 「なんですって、薬ですって?」  と、ききかえす。 「ああ、そうだよ。つまらない事に胸《むね》を痛《いた》めて、眠られぬようじゃかわいそうだからな。牛乳のなかへすこし眠り薬をいれておいてやったのですわい」  毛布《もうふ》を肩《かた》のところまで着た文代は、むこう向きになったまま、しずかに、規則《きそく》正しい呼吸《こきゆう》をつづけていた。 「なるほど、これで娘《むすめ》さんのほうは心配がいらなくなったわけですが、それで鉄仮面のやつはほんとうにやってくるつもりかな」 「むろん、やってくるにちがいない。わしはね、いつかも三津木くんといっしょに、こういう風にして唐沢さんの見張りをしたことがある。ところがどうだろう、まんまと鉄仮面のやつに出し抜《ぬ》かれてしまったのですわい。それを思うと、わしは不安でたまらない。今夜もひょっとすると……」 「ばかな、そんなことがあるもんですか。聞けば唐沢さんのときには、寝室《しんしつ》のドアがピッタリとしめてあったというじゃありませんか。今夜はこうして、ドアも開け放しで、すべてが見通しなんですから、万が一にもまちがいなど起こりようがありませんよ」 「そうでしょうかな。しかし、わしにはやっぱり安心がならない。鉄仮面——あいつは悪魔《あくま》だ。まるで、幽霊《ゆうれい》のように、どんな場所へも自由に出入りができるのだ。ああ、早く夜が明ければいい、早く夜が明ければいい」と、矢田貝博士は、すこしおおげさとも思われるほど、不安に、顔をひきつらせて、部屋の前の廊下《ろうか》を行きつ、もどりつしていたが、ああ、あとから考えれば、博士の不安はまさにあたっていたのだ。鉄仮面はまたしても、世にもふしぎな魔術《まじゆつ》を演《えん》じたのである。    十時が過《す》ぎ、十一時が鳴り、やがて十二時となった。博士と等々力警部の不安は、しだいしだいに、こくなってくる。鉄仮面ははたして、予告どおり現《あらわ》れるだろうか。邸内《ていない》はシーンとしずまり返って、どこやらでホーホーとフクロウの鳴く声が聞こえた。張り番につかせた刑事《けいじ》たちは、みなそれぞれの持ち場についているのであろう。せきひとつたてない。文代はあいかわらずむこう向きになったまま寝《ね》ている。薬がよほどきいているのであろう。身うごきひとつしないのだ。どこかで一時の鳴る音がきこえた。  ——と、このときである。庭にむかった寝室《しんしつ》の窓《まど》のほとりで、ふいに、コトリとかすかな音がしたので、いままで、キラキラと目をひからせていた博士と警部のふたりは、ハッとしてそのほうへふりかえった。  と、なんということだ! 窓ガラスにひたいをくっつけるようにして、室内をのぞいている顔、それはまさしく、あの世にも奇怪《きかい》な鉄仮面ではないか。 「あっ」  と、博士はギョッとして、こぶしもくだけんばかりに等々力警部の手くびをにぎりしめる。 「来た!」  と、警部もハッとばかりに廊下《ろうか》にからだをふせる。  鉄仮面は例の表情《ひようじよう》のない顔で、じっと室内をうかがっていたが、やがてフラフラと幽霊《ゆうれい》のようにその窓ぎわをはなれる。例によってゾロリと長い二重マントを着ているのが見えるのだ。やがて、そのからだはスルスルと、吸《す》い込《こ》まれるように、庭の闇《やみ》のなかへ消えていった。 「しまった! あいつ、われわれがここで張り番をしているのに気がつきやがったのです。先生、あなたはここにいてください。わたしはちょっと庭のほうの様子を見てきます」 「いいかね、そんなことをして」 「だいじょうぶです。先生は、ぜったいにここからはなれないようにしてください。すぐ帰ってきます」  警部は廊下をはうようにして、庭のほうへ出ていった。あまりひろくない庭の木影《こかげ》には、さっきからひとりの刑事《けいじ》がうずくまっているのだ。警部はそろそろとその刑事のほうへはい寄《よ》ると、 「おい、どうしたのだ。さっきのやつはどこへ行ったのだ」 「なんですって。さっきのやつとはなんのことですか」  刑事はキョトンとして、警部の顔を見直すのだ。 「鉄仮面だ。たったいま、鉄仮面のやつが、あの窓のそばへうかがいよったじゃないか」 「ばかな、そんな、ばかなことはありませんよ。わたしさっきからここにいて、あの塀《へい》のほうをじっと見まもっているのですが、だれひとり、あそこを乗り越《こ》えてきた者はありませんよ」 「いや、たしかに鉄仮面のやつがしのびこんだのにちがいない。おれは現《げん》に、あいつが窓の外からのぞいているところを見たんだ」  と、警部がいらだった様子で、部下をおこっているときである。ふいにバタバタとあわただしい足音とともに、塀を乗り越えてきた警官がある。警官は庭へとびこむと、すぐ警部のすがたをみとめて、 「ああ、警部。たいへんです。鉄仮面が——鉄仮面が——」 「なに、鉄仮面? 鉄仮面がどこにいるというのだ」 「あの屋根の上です。ほら、ほら、屋根をつたってむこうへ逃《に》げます」  その声にギョッとした等々力警部、屋根の上をあおいでみれば、なんということだろう。いましもつめたい月光のなかに、くっきりと浮《う》きあがったのは、まぎれもないあの鉄仮面のすがたではないか。  コウモリのようにヒラヒラと、袖《そで》をひるがえして、猿《さる》のようなすばやさで、屋根づたいにむこうのほうへ逃げてゆく。しかも、その両手には、たしかに人間と思われる白いからだをしっかと抱《だ》いている。  もし、等々力警部がたったいま、ベッドのなかに寝《ね》ていた文代のすがたを見てきたのでなかったら、かれはおそらく、鉄仮面が文代を誘拐《ゆうかい》して逃げるところにちがいないと思ったことだろう。 「しまった、屋根の上とは気がつかなかった。おい、あいつを逃がすな。あいつのあとを追いかけろ」  警部の声に、たちまち刑事連中がバラバラとそのあとを追ってゆく。鉄仮面のすがたはすぐ見えなくなった。と思うと、まもなく、うらのほうから、けたたましいエンジンの音がきこえてくる。 「しまった、乗り物の用意があるぞ。逃がすな」  警部もいっしょに、そのあとを追っていきたかったが、しかし、気になるのは文代の寝室《しんしつ》である。さっき、警部が出てくるときには、文代はたしかに、ベッドのうえに寝ていたけれど、なにかしら、ふいに胸《むな》さわぎが警部の胸にこみあげてきたのだ。  そこで、鉄仮面のほうは部下の者にまかせて、じぶんはそそくさと、もとの廊下《ろうか》へ帰ってみると、矢田貝博士がいても立ってもいられないような、不安な面持ちで、たたずんでいる。 「どうしたのです。あのさわぎはなにごとです」 「いや、鉄仮面のやつが現《あらわ》れたのです。ちくしょう、屋根のほうからやってきたんですよ」 「屋根から?」  と、博士はふと、おびえたような目の色をすると、 「それで、どうしましたか。捕《つか》まえましたか」 「いや、部下の者に、いま追跡《ついせき》させていますが、なんだか胸さわぎがしてたまらなかったものだから、いちおうこちらの様子を見にきたんですよ。文代さんのほうはだいじょうぶでしょうな」 「そりゃ、こちらはだいじょうぶ。文代はあのとおり、さっきからじっと眠《ねむ》っていますよ」 「なるほど」  と、警部はほっとしたようにひたいの汗《あせ》をぬぐいながら、 「ああ、おどろかせやがった。鉄仮面のやつ、なんだか人間のからだみたいなものを抱《だ》いているものですからね。ひょっとしたら、文代さんが、やられたのじゃないかと、ドキリとしたんですが、これでやっと安心した」 「なんだって?」  と、博士はギョッとしたように、 「鉄仮面が、人間のようなものを抱いていたんですって」 「そうですよ。ちょうど文代さんぐらいのね、寝間着《ねまき》を着たかっこうをしたものを、重そうに抱いていましたぜ。ははははは、しかし、そんなことは、かまわんじゃありませんか。文代さんさえ、だいじょうぶなら」 「いや、そうじゃない」  と、博士はきゅうにのどがつまったように、あの長い山羊《やぎ》ひげをふるわせると、いかにも不安そうに目をショボつかせながら、 「鉄仮面はぜったいに失敗せん男じゃ。あいつが人間みたいなものを抱いていたとすると、もしや——」 「もしや? どうしたとおっしゃるのですか」 「もしや、——もしや、文代を誘拐《ゆうかい》していったのじゃあるまいか」 「なんですって!」  と、警部はびっくりしたように、博士の顔を見直したがきゅうにプッとふきだすと、 「先生、先生は今夜よっぽどどうかしていますね。文代さんはあのとおり、ああして、あそこで、スヤスヤと眠《ねむ》っているじゃありませんか」 「そうじゃ、それにちがいない。わしはひょっとすると、あまり鉄仮面のやつを買いかぶりすぎているのかもしれない。しかし、しかし」  と、口ごもりながら、矢田貝博士は神経質《しんけいしつ》らしい手つきで、度の強い眼鏡《めがね》の玉をふいている。ロウをひいたように、あぶらけのない、そのひたいには、ベットリと、汗《あせ》が浮《う》かんでいた。 「しかし、しかしどうしたとおっしゃるのですか」 「しかし、ああ、やっぱりわしの思いちがいかな。ああ、おそろしい。等々力くん、きみすまないが、ちょっと、文代の顔を見てきてくれないか。なに、ほんの気やすめだ。万が一にもそんなことはあろうとは思えないが、きみ、ちょっと、ちょっと、文代の顔を見てきてくれたまえ」  博士のことばを聞いているうちに、 警部の胸《むね》にも、 なにかしら、 えたいのしれない不安がもや もやとわき起こってきた。かれは思いきったように、つかつかとベッドのそばへあゆみよった。 「文代さん、文代さん、ちょっと起きてみてください。文代さん」  と、いいつつ、毛布《もうふ》のはしに手をかけた等々力警部が、そっとそれをまくりあげたとたん、 「あっ!」  と、叫《さけ》んで、警部はうしろへあとずさりした。ああ、なんということだ。文代のからだはいつのまにやら、人間の大きさと同じロウ人形と変わっていたではないか。 [#改ページ] [#小見出し]  ふたり鉄仮面《てつかめん》  さすがの矢田貝博士《やだがいはかせ》も、長い山羊《やぎ》ひげをふるわせながら、ぼうぜんとして立ちすくんでしまった。いったい、どうしてこのような奇跡《きせき》が起こったのだ。矢田貝博士と等々力警部《とどろきけいぶ》のふたりのうち、すくなくとも博士のほうは、一分たりとも文代《ふみよ》のからだから目をはなさなかったはずである。それにもかかわらず、文代のからだはいつのまにやらロウ人形にかわっている。ああ、おそるべき悪魔《あくま》の妖術《ようじゆつ》! こんなことが、はたして、あってよいものだろうか。  ふいに等々力警部が、ドシンと音をたててかたわらの椅子《いす》に腰《こし》をおとした。しばらく警部は気がぬけたように、冷たいロウ人形の横顔をながめていたが、やがて猛然《もうぜん》と立ち上がると、 「ちくしょう! それじゃやっぱり、さっき鉄仮面のやつが抱《だ》いていったのが、文代さんだったのだ」  と、叫《さけ》んだかと思うと、いきなり部屋《へや》の外へおどり出そうとする、部下に命じて鉄仮面のあとを追跡《ついせき》させるためである。  だが、その必要はなかったのだ。なぜならば、警部が部下の刑事《けいじ》を呼び入れて、ガミガミと命令をくだしているところへ、ふいにひとりの刑事が息せききってかけつけてきたのだ。 「警部、よろこんでください。鉄仮面を捕《と》らえました」 「なに? 鉄仮面を捕らえたと?」  と、同時に叫んだのは、等々力警部と矢田貝博士。ことに、博士は、度の強い近眼鏡《きんがんきよう》の奥《おく》で、いまにも目玉がとび出しそうな顔をする。 「ええ、捕らえましたよ。オートバイで、江戸川《えどがわ》公園のなかへとび込んで、まごまごしているところを、大滝《おおたき》のそばでつかまえたんです。こちらへつれてきましょうか」 「よし、つれてきたまえ」  刑事がすぐに引きずりこんできたのは、まぎれもなく妖魔《ようま》鉄仮面。ああ、さすがの大悪魔も、ついに警官の手に捕らえられたのだ。等々力警部はこうふんのために、思わず胸《むね》をおどらせる。むりもない。警視庁《けいしちよう》にとってはうらみかさなる大悪人の、鉄仮面だ。 「おい、鉄仮面! きさま、文代さんをどこへやった」  鉄仮面は無言である。あの冷たい鉄の仮面が、ギラギラとぶきみな底びかりをたたえて、三日月型に割《わ》れた唇《くちびる》が、さながら警部をばかにするように笑っている。  警部はいらいらしたように、そばの刑事をふりかえると、 「きみ、こいつを捕《つか》まえたとき、文代さんのすがたをそばに見かけなかったかい」と、きいた。 「えっ、文代さん? ああ、すると、あのオートバイの前にのっていたのが、やっぱり文代さんでしたか」 「そうだ、そうだ。その文代さんはたすかったろうね。無事に取りもどしてきてくれたろうね」 「ところが、それがみょうなんですよ。公園のなかでこいつを捕《と》らえたときには、それらしい人はどこにも見えなかったんです」 「なに、見つからなかった? そんなばかなことがあるものか。どこか、公園のなかにかくしてあるんだ。もういちどみんなでよく公園のなかを調べてみろ」 「はあ、それはもうじゅうぶん手ぬかりなく探《さが》してみたんですが——ああ、ひょっとすると!」  と、刑事《けいじ》がふいにギョッとしたような顔をしたので、警部も不安そうに、 「ひょっとすると——? どうしたというのだ」 「いえ、これはわたしの想像《そうぞう》ですが、鉄仮面のやつ、文代さんを殺して、大滝《おおたき》のなかへなげこんだのじゃありますまいか。あいつを捕らえたときには、ちょうど橋の上に立っていたんですから」 「なんだって?」  と、矢田貝博士がふいにそばから口を出した。 「それはたいへんだ。それじゃ一|刻《こく》も早く行かねばならん。あんた方、滝壺《たきつぼ》のなかをさらってみてください。鉄仮面のやつは、警部さんと、おれのふたりで取り調べてみる。のう、警部さん、そうしたほうがよろしくはないかな」 「むろん、そうです。じゃきみたち、大急ぎで滝壺のなかをさがすんだ。わかったかね」 「ハイ、わかりました」  と、刑事たちがあたふたと出ていったあとには、鉄仮面を中心に矢田貝博士と等々力警部。しばらくは、おたがいのようすを探《さぐ》っていたが、やがて警部が、つかつかと鉄仮面のそばへよると、 「おい、鉄仮面、いやさ、東座蓉堂《ひがしざようどう》、きさまももう年貢《ねんぐ》のおさめどきだ。どれ、ひとつきさまの顔を見てやろう」  と、やにわに相手の仮面をはぎ取った。が、そのとたん、警部と博士の唇《くちびる》からは、あっとばかりに叫《さけ》び声がもれた。ああ、なんと、たったいままで東座蓉堂とばかり信《しん》じきっていたその鉄仮面は、意外も意外、蓉堂の従者《じゆうしや》、黒人男のアリだったではないか。 「ちがう、ちがう」  と、矢田貝博士があわてて叫んだ。 「こいつは鉄仮面じゃない。こいつは手下のアリだ」  アリはしばらく、無表情《むひようじよう》な顔でまじまじとふたりの顔をながめていたが、やがて鍋《なべ》ズミをくっつけたような頬《ほお》をほころばしてニヤニヤ笑うのだ。 「ちくしょう!」  と、警部は歯ぎしりをしながら、 「まんまと一ぱいくわしやがった。だが、このままじゃすまさないぞ。こいつをたたいて、かならず鉄仮面のありかをはくじょうさせてみせる。おい、きさま、文代さんをどこへやった。いやさ、本物の鉄仮面はどこにいる」  警部が必死となってつめ寄《よ》るにもかかわらず、黒人男のアリは、どこ吹《ふ》く風とばかりにすましている。さすがの警部も根負けしたように、 「ちくしょう! とぼけていやがるな。それともわからぬふうをしているのかな」 「いや、警部、ちょっとまってください」  と、さっきからまじろぎもしないで、アリの横顔をながめていた矢田貝博士は、そのとき、なにを思ったのか、そばの薬品|棚《だな》から瓶《びん》にはいった液体《えきたい》をとりだすと、それを綿《わた》にしませて、いきなりアリのほっぺたにおしつけた。——と、奇怪《きかい》も奇怪、薬でぬぐわれた部分だけ、ひふがスーッと白くなっていったではないか。 「あっ!」  と、アリも、それに気がつくと、いままでの無表情《むひようじよう》はどこへやら、血相《けつそう》かえてとびのくのを、そうはさせじと、鋼鉄《こうてつ》のような手で、しっかりと相手の腕《うで》をつかんだ矢田貝博士。 「おい、恩田《おんだ》、しばらくぶりだったのう」 「えっ!」  と、黒人アリはのけぞらんばかりにおどろいた。意外も意外、たったいままで黒人とばかり思っていたこの怪人物《かいじんぶつ》は、そのじつ、われわれと同じ日本人だったのだ。 「先生、先生はこいつをご存知《ぞんじ》なのですか」 「知っていますとも、警部さん。こいつ黒人だなんてまっかないつわり。ほら、いつか唐沢《からさわ》さんのお宅《たく》へスパイになって住み込《こ》んでいた、鉄仮面第一の子分、恩田というのがこの男ですよ。それにしてもよく考えたものじゃありませんか。ふつうの変装《へんそう》じゃ、見やぶられる心配があるので、黒人とは化けも化けたり。これ恩田、こうなったらなにもかもおしまいだ。なあきさま、文代さんをどこへやった。それから鉄仮面はどこにいるのだ。それを正直にいってくれれば、すこしでもおまえの罪《つみ》が軽くなるようにはからってやる。のう、恩田、何もかもすなおにいってしまいなさい」  と、よくわかるような博士のことば。恩田はまじろぎもしないで、しばらく博士の顔をながめていたが、なにを思ったのか、ふいにブルブルと身ぶるいをすると、そのまま首をうなだれて、だまりこんでしまうが、やがて、 「もうだめです。矢田貝博士、あなたにはぜんぶもうしあげます」 「よし、いえ、鉄仮面はいまどこにいる」 「ハイ、その鉄仮面は……」  と、いいかけたときである。  ふいに、矢田貝博士が、あっと叫《さけ》んで、窓《まど》のそばへとんでいった。 「だれだ!」  と、窓《まど》ガラスをひらいて、外の闇《やみ》へむかってどなりつける。おどろいたのは等々力警部。 「ど、どうかしましたか」 「いま、だれやら、この窓からのぞいていたんですが、あっ、あぶない!」  と、叫ぶと同時に、博士はいきなり警部のからだをかかえて、床《ゆか》の上におしころがした。 「ど、どうしたのです。博士、いったいこれは——」  と、ふいをくらってあおむけざまにひっくりかえった等々力警部、ふんぜんとして起きあがると、博士にむかってくってかかる。 「警部、あんたは気がつきませんでしたか。いま、何やら、キラリとひかるものが、われわれのほうに飛んできたのを。——あ、あれはどうしたのじゃ」  博士の声にふとふりかえった等々力警部、ふいにゾーッと髪《かみ》の毛がさかだつようなおそろしさをかんじた。  見よ、部屋《へや》の中央には恩田が、カッと目を見ひらき、両手を固くにぎったままのしせいで突《つ》っ立っているではないか。見れば、そののど笛のところに、銀色の短刀がザクッと突っ立ち、そこからアワのような血がぶくぶくと噴《ふ》き出している。そしてなんともいえない気味悪い音が、シューシューとそこからもれているのだ。  恩田は立ったまま死んでいるのであった。ああ、いつか新日報社《しんにつぽうしや》において、折井《おりい》記者を殺したと同じあのアルミニウムの短刀が、みごとに恩田ののど笛をかき切ってしまったのであった。  ああ、なんという悪魔《あくま》の手ぎわのあざやかさ。鉄仮面はまたしても、博士と警部の目の前で、一番たいせつな証人《しようにん》を殺してしまったのだ。おそらく窓の外から様子をうかがっていて、いよいよ恩田がはくじょうしそうになったものだから、例の短剣《たんけん》を恩田ののど笛めがけてぶっ放したのであろう。  むろん、邸宅《ていたく》のまわりは、たちまちげんじゅうに捜索《そうさく》された。しかし、そのじぶんまでまごまごしているような鉄仮面ではない。かれはまたもや煙《けむり》のように消えてしまったのだ。  こうしてふたたび鉄仮面は、勝利をおさめた。おおぜいの人びとの目の前で、文代を誘拐《ゆうかい》したばかりか、じぶんの身があやうくなりかけると、たいせつな子分をさえ、なんのようしゃなく、殺してしまうその非情《ひじよう》さ! 警部の必死の捜索にもかかわらず、文代のゆくえはわからない。むろん、その夜からあくる朝へかけて、江戸川公園の大滝《おおたき》は、げんじゅうにさらわれた。いつのまにやら、このうわさを聞き伝えたとみえて、夜明けごろから公園の近くはいっぱいの人だかり。 「どうしたんです。川のなかをさらって、いったい何をさがしているんです」 「それがさ、なんでも鉄仮面のやつがまた人殺しをして、あの滝のなかへ死体をぶちこんだんですとさ」 「ほほう、して殺されたのはだれですか」 「それが、かわいそうに、あのミュージカル・スターの香椎文代だという話だぜ」 「そいつは——してその死体はもう出ましたかね」 「それがまだ出ないから、ああして探《さが》しているんじゃありませんか」 「しめた。それじゃ出るまでここで待っていよう。しかししまったな。こういうことなら、べんとうでも持ってくるんだったな」  などとたいへんなさわぎ。  そのうち滝壺《たきつぼ》のなかをさらっていた作業員のひとりが、ふいになにやら叫《さけ》んで、どろのなかからひろいあげたものがある。大きな麻《あさ》の袋《ふくろ》だ。どうやら人間のかたちをしている。それを見ると、やじうまがワッとばかりにさわぎだした。たちまち警官《けいかん》たちがバラバラと、その麻袋のそばへよって口をひらきにかかる。なかから出てきたのははたして文代の死体か。  と、そこにみょうなことが起こった。袋の口をひらいてなかをこわごわのぞいていた警官のひとりが、ゲラゲラ笑いだしたかと思うと、いきなりむんずと片手《かたて》をつっこんで、ズルズルと引きずり出したのはなんということだ。これまた、ゆうべ文代のベッドに寝《ね》ていたと同じような、人間の大きさのロウ人形ではないか。してみると、ゆうべ恩田がオートバイに積んではこびさったのは、文代ではなくて、このロウ人形だったのだろうか。  もしそうだとすると、文代はいったい、いつ、どのようにして誘拐《ゆうかい》されたのだろう。何もかもが、謎《なぞ》だらけだった。鉄仮面のすることは、こうしていつも、人の思いもかけないような行動に出るのだ。もし、恩田が生きていれば、その間の様子もいくらかはっきりするのだろうが、恩田を殺されてしまっては、どうすることもできない。こうして警視庁はまたもや世間の人びとから、非難《ひなん》をあびることになってしまった。わけても等々力警部と、矢田貝博士の面目はまるつぶれというわけである。  矢田貝博士などは、かえすがえすの失敗に、すっかり気をくさらせて、もうこれ以上、鉄仮面と戦うのはやめるとさえいいだしたくらいだ。  ああ、三津木俊助は、軽気球とともにいまだにゆくえがわからず、いままた、矢田貝博士が手を引くとしたら、怪人《かいじん》鉄仮面とはたしてだれが戦うというのか。    さて、物語はここでまたガラリと一変する。  ここは湘南《しようなん》のかたほとり、北原白秋《きたはらはくしゆう》の歌で名高い城《じよう》ケ島《がしま》に近い、とある丘《おか》の上に、一つのふしぎな城《しろ》が建っている。もし旅人がこの丘のふもとを通りすぎて、なにげなくこの城をあおいだとしたら、その人はじぶんが日本にいるかどうかとうたがってみたことだろう。それほど、この建物は一ぷう変わっているのだ。ツタカズラがおいしげる高い望楼《ぼうろう》、ピエロがかぶる三角帽《さんかくぼう》のようにとがったいくつかのせん塔《とう》、鐘楼《しようろう》もあれば、銃眼《じゆうがん》のついた高い壁《かべ》もあるというぐあいで、まるで中世のヨーロッパの古城《こじよう》さながらのすがたであった。  それもそのはず、この城を建てたのは、もと東京の有名な実業家で、その人はかつて、外国を旅行してきたときに、イタリアのどこやらで、これと同じ城《しろ》を見物してきて、それからというもの、その古めかしいおもむきが忘れられず、そっくりそれと同じ城を、この湘南の地に建てたのである。  ところが不幸にも、その人は、この城ができあがるとまもなく、事業に失敗して破産したあげく、発狂《はつきよう》して城の塔《とう》で自殺してしまったものだから、それ以来、だれひとりこの奇妙《きみよう》な城に住もうというものはない。住む人のないこの城は、日ましに荒《あ》れはてるばかり。ちかごろでは、この城に主人の幽霊《ゆうれい》が出るといううわささえたって、人呼んでこれを幽霊|城《じよう》。  さすがのきものふとい漁師《りようし》でさえ、この城の付近には近寄《ちかよ》らぬようにしているくらいである。    さて、まえにいった矢田貝博士の家の怪事件《かいじけん》があってから一週間ほどのちのことである。  この丘《おか》のふもとの漁師村に、ただ一|軒《けん》ある宿屋へとつぜんやってきたひとりの旅人があった。宿帳にしるした名前を見ると由利麟太郎《ゆりりんたろう》、職業《しよくぎよう》は画家とあったが、ふしぎなのはその人の顔かたちである。そぎ取ったようなするどい顔。人をさす目、その顔を見ると、どうしても、四十五より上には見えないのに、奇怪《きかい》なのはその髪《かみ》の毛だ。まるで白雪をいただいたような銀色の頭髪《とうはつ》は、この人の年齢《ねんれい》をはんだんするのにくるしませるのである。  由利麟太郎氏は、宿屋に荷物をとくと、すぐ散歩にいくといって、ブラリと外へ出かけた。画家というふれこみだから、近くの景色をさぐりに行っても、なんのふしぎもないが、しかし、なんともふしぎなのは、この人のするどい目である。それは画家がスケッチする場所をさぐるというよりも、するどい猟犬《りようけん》が獲物《えもの》をかぎつけようとする目つきに似《に》ている。  この人は丘をまわって、しだいに波打ちぎわへ出ていった。その波打ちぎわのすぐうしろには、切り立てたような断崖《だんがい》がそそり立っていて、その上に例の古城《こじよう》が、城ケ島の燈台《とうだい》とむきあって、そびえているのである。由利はその波打ちぎわに腰《こし》をおとすと、ポケットから一本の葉巻《はまき》を取り出して、ゆっくりと、それに火をつけた。  ——と、そのとたん、何やら白いものがとんできたかと思うと、カチリと由利の足もとにはねかえった。由利麟太郎はギョッとしたように、ひとみをすえたが、見ると、それは小さな貝がらなのである。由利はちょっとふりかえって、上を見た。崖《がけ》の上には、例の古城がそびえ立っていたが、その城の窓《まど》に何やらチラと白い物がうごいたように見える。しかし、それはすぐ窓のなかに消えてしまった。  由利はしばらくあたりを見まわしていたが、やがてつと身をかがめて、その貝がらをひろいあげた。ふつうのハマグリなのだ。由利はしばらく、そのハマグリをじっと眺《なが》めていたが、やがてその割《わ》れ目に爪《つめ》をあてると、カチリとハマグリのからをふたつにひらく。——と、なかから出てきたのは、はたして一枚の紙片《しへん》、紙片の上には、   タスケテ——タエコ  と、ただそれだけ。由利はそれを見ると、ギョッとしたように目をすぼめたが、そのとき、岩のむこうからサクサクと砂をふむ足音が聞こえたので、あわててその貝がらをポケットにねじこんだ。  と、そのとたん、岩角をまわってすっとあらわれたのは、ひとりの漁師《りようし》だ。まっくろに日にやけ、身にはぼろぼろの着物をまとっている。漁師は由利のすがたを見ると、ギョッとしたように立ちすくんだが、きゅうにギロリと目をひからせると、 「おい、いまここへ、なにか落ちてきやしなかったかい」  と、おびやかすような声なのだ。 「知らないね」  と、由利はわざととぼけて、たばこの煙《けむり》をはいている。 「ちくしょう、いま、おまえなにかポケットへかくしたじゃねえか。それをこちらへわたせ」 「いやだ!」 「いや? こんちくしょう! いやだとぬかしゃ、腕《うで》ずくでもうばってみせるぞ」  と、漁師はふんぜんとして、由利のほうにおそいかかってきたが、何を思ったのか、あっと叫《さけ》んであとずさりをすると、 「や、や、あなたは由利先生!」  名前をいわれて由利はギョッとしたように、きっと身がまえをすると、 「そういうきさまはなにものだ」 「先生、ぼくです。三津木俊助《みつぎしゆんすけ》です。先生、由利先生、よく帰ってきてくださいました」  と、そういったかと思うと、三津木俊助、いきなり相手の腕にすがりついて、オイオイと男泣きに泣きだしたのだ。  ああ、奇怪《きかい》とも奇怪、このあやしい漁師ふうの男こそ、軽気球とともに、ゆくえ知れずになった三津木俊助だったのだ。しかしその俊助に先生と呼ばれる由利麟太郎とは、はたして何者だろう。  きみたちのなかにも、名まえを聞いた人があるかもしれない。この由利先生こそは、かつて警視庁の捜査《そうさ》課長として有名な、そして大探偵《だいたんてい》といわれた人だった。その後ある深いわけがあって、捜査課長をやめ、外国へ旅行に行ったのである。  三津木俊助は由利先生が捜査課長時代からたいへん世話になっていた。新聞記者と警察官《けいさつかん》と、職務《しよくむ》こそちがってはいても、ふたりの仲は兄弟も同じの親密《しんみつ》さ。いつも協力して、難事件《なんじけん》を解決《かいけつ》したものである。俊助はこんど鉄仮面の事件が起こってからも、しばしば、この由利先生を思い出したものだ。 (由利先生さえいてくれたらなア)  俊助は何度となくそうためいきをついたものだが、その由利先生がいまやとつぜん、事件のなかへ登場したのだ。俊助ならずとも、びっくりするのはむりもない。 「ああ、きみか——」  と、由利先生も、一時のおどろきからさめると、いかにもうれしげに、俊助の手をにぎりしめる。 「これはありがたい。きみが生きていてくれようとは、夢《ゆめ》にも思わなかった。きみは軽気球とともに、海中へついらくして死んだことだとばかり思っていたよ」 「そうです。この付近の海上へ落ちて危《あや》うく死ぬところだったのですが、御子柴進《みこしばすすむ》という少年の勇敢《ゆうかん》なはたらきによって、ようやく命をとりとめたのです。そして、この古城《こじよう》についての、耳よりなうわさを聞いたものですから、わざと身分をかくして、古城の様子をさぐっていたのですよ。しかし、ふしぎですなあ、先生はどうして、この古城へ目をつけられたんですか」 「なあに、それはいたってかんたんなことさ。しかしそれはまだ話す時期ではない。それよりこんなところで立ち話をしていて敵《てき》にあやしまれてはならん。今夜、十二時におれの宿へたずねてきたまえ」 「行きます。先生! ぼく、うれしいのです。先生が事件《じけん》の解決《かいけつ》に、お骨折《ほねお》りくだされば、鉄仮面のひとりやふたり……」 「しっ、ばかな声を出すもんじゃない」  ああ、なんという意外なめぐりあい、なんといううれしい運命の変わりかたであろう。俊助はほとんど足も地につかぬ心もちで、いったん由利先生に別れたが、さて約束の十二時に、指定された由利先生の宿をおとずれた三津木俊助は、先生の部屋《へや》へはいるやいなや、あっとばかりに立ちすくんでしまった。  なんということだ。そこにはあのうらみ重なる鉄仮面が、ごうぜんとして突っ立っているではないか。 「おのれ」  と、俊助が思わずこぶしをかためてつめ寄《よ》ると、ふいにみょうなことが起こった。 「三津木くん、三津木くん、早がてんしちゃこまる。おれだよ、由利麟太郎だよ」  といいながら、仮面をとったところをみると、これこそ、まさしく由利先生。 「どうだ、三津木くん、おれの作戦は。——今夜はこうして鉄仮面に化けて、敵《てき》の本拠《ほんきよ》をつこうというのだ。どうだ、きみもいっしょに行かないか」  と、由利先生はそういうと、ぼうぜんとしている俊助をしりめにかけ、高らかに笑ったのである。たのもしきかな由利先生。登場するや早くも名探偵《めいたんてい》ぶりを発揮《はつき》して、鉄仮面にむかって、真正面から挑戦《ちようせん》しようというのだ。    妙子《たえこ》はふと目をさました。どこやらでかすかに口笛を吹《ふ》く音がする。  ルルルルルル……しんとした古城《こじよう》のなかに、ひそやかにひびきわたるその口笛の音のきみわるさ。いったい、だれがいまごろ口笛なんか吹いているのだろう。——そう思って、じっと聞き耳をたてていると、ふいに、 「キャーッ! だれか——だれかきてえ」  と、つんざくような悲鳴が古城の壁にはじきかえって、聞こえてきた。その声に妙子はギョッとして、あなぐらのような一室のベッドの上に起きなおった。 (文代《ふみよ》さんだ! そうだ、たしかにいまのは文代さんの声にちがいない。それじゃ、文代さんもやっぱり、この幽霊城《ゆうれいじよう》に捕《と》らえられているのだろうか)  妙子はもうむちゅうだった。われを忘れて、思わず厚《あつ》いドアにからだをぶっつける。しかし、古びているとはいっても、もともとがんじょうなカシのドアなのだ。かよわい女の身で、どうしてこれを打ち破《やぶ》ることができよう。 「ああ、神さま。どうぞどうぞ、このドアをあけて、そしてひとめでもいいから文代さんに会わせて」  この古城にとじこめられてから、なにもかもあきらめてしまった妙子だったが、このときばかりは、いまいちど身の自由がほしかった。鉄仮面に抱《だ》かれて、軽気球を脱出《だつしゆつ》してから、この古城にとじこめられるまで、彼女《かのじよ》は女としていうにいわれぬおそろしい目にあってきた。もうもう、こんなおそろしい目にあうくらいなら、いっそ死んでしまったほうが、どれくらいましだかしれやしないと、いくどとなく自殺を決心した妙子だったが、そのたびに、彼女を引きとめるのはあのいじらしい文代のおもかげだった。  その文代の声が、ふたたび三たび、古城の闇《やみ》をつらぬいて聞こえた。 「助けて、助けてえ。あれ、おそろしい」  と、息もたえだえなその声。妙子はそれを聞くといよいよむちゅうになった。必死になって、ドアをたたき、身をもだえ、じだんだをふんでいるうちに、ふいにスーッとドアが外からあいたかと思うと、いきなり、グイと彼女の腕《うで》をつかんだ者がある。  鉄仮面なのだ。鉄仮面は冷たい鋼鉄《こうてつ》の目で、じっと妙子の顔を見ていたが、 「妙子、おまえ、そんなに文代に会いたいか。よしよし、それじゃ会わしてやる」  と、いったかと思うと、いきなりグイと妙子の肩《かた》を捕《つか》まえ、引きずるように、長い廊下《ろうか》を歩いていく。くねくねとまがりくねった、まっ暗な古城の廊下、あちこちに、古びた石膏像《せつこうぞう》や、ヨロイをつけた武士《ぶし》の像が立っていて、それがまるで化け物のように、あやしげな息づかいをしているのだ。  鉄仮面はそれらのなかを、無言のまま歩いていく。ところどころに丸い窓《まど》があって、そこから帯のような月のひかりがすべりこんでいる。鉄仮面はやがて、とあるドアの前に立ちどまった。そして、ドアの上についている丸い窓をひらくと、ルルルル! ルルルルルル! と二、三度ひくく口笛を吹《ふ》き、やがてまた、妙子のほうへふりかえって、 「妙子、ほら、このなかをのぞいてみろ」と、いう。  妙子は、こわごわのぞいてみると、部屋《へや》のなかにうつぶせにたおれているのはまさしく香椎《かしい》文代。気でもうしなっているのだろうか、床《ゆか》に顔をふせたまま、身うごきもしない。ふと見ると、その文代のからだから二、三メートルとはなれないところに、なにやら異様《いよう》にふとい、帯のようなものが長ながと横たわっている。 「妙子、ほら見ていてごらん。いま、おれが口笛を吹くからな」  と、鉄仮面はそういうと、またもや仮面の奥《おく》で、ルルルルルル! ルルルルルル! とかるく口笛を吹《ふ》き出した。と、そのとたん、なにやら、シュッ! シュッ! と気味の悪い物音が聞こえたかと思うと、ああ、なんということだ。床の上に横たわっていた、あの長い帯が、静かに静かにうごきだしたではないか。 「あッ!」と、妙子は、思わずまっさおになった。全身の毛穴《けあな》という毛穴から、熱湯のような汗《あせ》がほとばしり出てきた。じつにおそろしいとも、ものすごいとも、ちょっと口でいいあらわすことができないほどのその光景のおそろしさ。  帯のように見えたのは、一|匹《ぴき》の大きなニシキ蛇《へび》。そのニシキ蛇が、大きな樽《たる》ほどもあろうと思われるかま首をもたげながら、チロチロと、舌《した》をはいて、文代のほうに、はいよっていく、そのおそろしさ。シュッ! シュッ! というあの異様《いよう》な物音は、ニシキ蛇が全身をくねらすたびに、うろこがふれあって発する、世にも気味の悪い音なのだ。 「あっ!」  と、妙子が思わず絶叫《ぜつきよう》すると同時に、いままで気をうしなっていた文代が、ふと息をふきかえした。——と、ほとんど同時に、彼女はじぶんの目の前にせまっている怪物《かいぶつ》の目を見たのだ。 「あれ! ああ、助けて! 助けて!」  と、髪《かみ》をふりみだし、気も狂《くる》わんばかりの様子で、部屋のなかを逃《に》げまどう文代のすがた。そのあとを、あのものすごいニシキ蛇は、あい変わらずシュッ! シュッ! とぶきみな音をたてながら、長いからだを波打たせておいかけるのだ。——ああ、そのおそろしさ、ものすごさ。 「はははははは、妙子、見たかい。ほら、おまえもおぼえているだろうな、いつか新聞に出た鉄仮面の広告を。——   欲《よく》ばりばばあは欲ばって    お化けのつづらをしょいこんだ   親の因果《いんが》が子にむくい    香椎文代のいじらしさ    と、いうあの歌を。ほらほら、あのおそろしい大ニシキ蛇が、お化けのつづらから出てきた化け物さ。いまに文代は、あの怪物に巻《ま》かれて、骨《ほね》も肉もバラバラにくだかれて死んでしまうわ。はははははは」  鉄仮面はそういったかと思うと、ぶきみに、古城《こじよう》のなかにひびきわたるような声をあげて笑ったが、どうしたのか、その声はフーッと、ためらうように闇《やみ》のなかへ消えていった。なにやら、闇の廊下《ろうか》にうごめくけはいをかんじたのだ。 「だれだ!」  と、鉄仮面はふいにギョッとしたようにふりかえる。 「おれだよ」  と、闇のなかから声がした。 「おれ! おれじゃわからん、だれだ? 名を名のれ。名を——」  と、鉄仮面は片手《かたて》にしっかりと妙子のからだを抱《だ》いたまま、しゃがれた声をあげてやっきとなる。 「名か、はははははは、名は鉄仮面」  と、そういったかと思うと、とたんに、闇の廊下からぬっと顔をつきだしたのは、ああ、なにからなにまでよくぞ似《に》たと思えるほど、そっくり同じ鉄仮面。 「あっ!」  さすがの第一の鉄仮面も、思わずよろよろとうしろへよろめいた。古城のまがりかどで顔をつき合わせたこのふたりの鉄仮面。 [#改ページ] [#小見出し]  百鬼夜行《ひやつきやぎよう》  身の毛もよだつような、暗黒の地獄《じごく》の底で、いま、バッタリと顔と顔とをつき合わせたふたりの鉄仮面《てつかめん》。西洋のことばでいえば、それこそふたつの豆と豆のように、少しもちがわぬ、鉄仮面ふたりなのだ。さすが大胆《だいたん》ふてきな第一の鉄仮面も、思わずうめき声とともに、ヨロヨロとうしろへよろめいたが、それもむりのない話。 「いったい、き、きさまはなにものだ!」  と、第一の鉄仮面。 「おれか、おれは鉄仮面よ。そういうきさまこそなにものだ」  と、第二の鉄仮面。  仮面にかくれた四つの目が、白刃《しらは》のようにわたりあって、ふたりとも、すきあれば、いまにもおどりかかろうと身がまえ、必死の意気ごみなのだ。  壁《かべ》ひとえむこうの密室《みつしつ》では、いましも文代《ふみよ》が息もたえだえにすくいをもとめている。  シュッ! シュッ! と、世にも異様《いよう》な物音をたてて、それを追いかけるニシキ蛇《へび》。  ——と、そのときである。密室のなかで、とつじょ、ただならぬ物音が起こった。ドタバタと床《ゆか》の上をのたうちまわる蛇の音。それにまじって、文代の悲鳴、いきもたえだえのすすり泣きの声。ああ無残、あのおそろしいニシキ蛇が、ついに文代のからだを捕《と》らえたのではなかろうか。 「あっ!」  と、叫《さけ》んでまっさおになったのは、それまで、廊下《ろうか》のかたすみにたたずんでいた妙子《たえこ》である。目の前でにらみあっているふたりの鉄仮面よりも、彼女にはこのほうがもっと気になるのだ。すばやく身をおどらせて、あの四角いのぞき窓《まど》にとびついた妙子、ひとめ、なかの光景を見るやいなや、 「あれ!」と、叫んで、そのまま廊下のはしに、クネクネとたおれてしまった。気をうしなったのである。  いったい、彼女はその密室《みつしつ》のなかに、なにを発見したのだろう。  それはともかく、妙子のこのとつぜんのそぶりに、あとから現《あらわ》れた鉄仮面は、ちょっと気をとられていた。つまりそれだけ、身がまえにすきができたわけである。ゆだんのない第一の鉄仮面が、これを見のがすはずがない。ふいにサッと身をすくめたと見ると、頭づき一番、いやというほど相手の胸《むね》にぶつかっていったからたまらない。ふいをくらった第二の鉄仮面は、思わずタタタタタとあとずさりをすると、妙子のからだの上をとんで、ドンと廊下の壁《かべ》にぶつかった。と、見るとこの時すでに、第一の鉄仮面は、はや二、三メートルむこうをいちもくさんに走っている。 「待て!」  と、叫んだ第二の鉄仮面が、からだのかまえをなおしたとき、ズドン、ズドン、ズドンと、たてつづけに二、三発。さいわい弾丸《だんがん》はことごとくねらいがはずれて、うしろのはめ板《いた》に穴《あな》をあけただけだが、その間、第一の鉄仮面は、サッと、廊下のかどをまがって闇《やみ》のなかへ。 「おのれ!」逃《に》がしてなるものかと、身を起こした第二の鉄仮面が——もちろんこれは由利《ゆり》先生なのだが——いそいであとを追っかけると、いましも、第一の鉄仮面は、長い廊下を疾風《はやて》のごとく走っていく。  ズドン、ズドン、ふたたび、三たび、ピストルの音が古城《こじよう》の闇をつらぬいて、廊下の左右にズラリと陳列《ちんれつ》してあるよろい武者《むしや》や、美人の石膏像《せつこうぞう》が、いまにもおどりだしそうなおそろしさ。  そのなかを、ふたり鉄仮面の必死の鬼《おに》ごっこ。逃げるのも追うのも、なにからなにまでちがわぬ同じ顔かたちをしているのだから、まるでわけのわからない光景だ。 「チェッ!」と、ふいに、先頭の第一の鉄仮面が立ち止まると、手にしていたピストルを、いやというほど床《ゆか》の上にたたきつけた。弾丸がなくなったのだ。しかも、廊下はそこで行きどまりときている。  こうなったらもうしかたがない。いよいよ、素手《すで》と素手との戦いなのだ。鉄仮面はすっかり覚悟《かくご》をきめたように、あとからせまってくる由利先生のすがたを眺《なが》めていたが、何を思ったのか、ふいにクルリと身をひるがえすと、窓《まど》から外へ、トイを伝ってするすると屋根のほうへのぼっていく。  こう書くと、なんでもないことのようだが、考えてもみたまえ、そこは切り立てたような断崖《だんがい》の上にそそり立っている古城《こじよう》の、しかも一番高い鐘楼《しようろう》なのだ。もし、一歩、足をふみはずせば、身は高い断崖から、岩の多い波間についらくして、骨《ほね》も肉もこなごなとなってくだけてとぶだろう。  その塔《とう》の壁の上を、いましも鉄仮面はヤモリのようにはいのぼっていく。それこそ、生命《いのち》がけでなければできないげいとうなのだ。  十センチ、二十センチ、トカゲのように身をくねらせて、その壁の上をはっていくうちに、鉄仮面の手は、ふと一すじのつなにふれた。いやつなではない。壁一面をおうているツタのつるなのだ。 「しめた!」とばかりにこのつるに手をかけた鉄仮面、こころみに引っぱってみると、ビクともしない。これさいわいとばかりに鉄仮面、このつるにぶらさがると、猿《さる》のごとくスルスルと塔のてっぺんへのぼっていく。ピエロのかぶるトンガリ帽子《ぼうし》のような塔の屋根、その先に突《つ》っ立《た》っている避雷針《ひらいしん》のそばまで、やっとたどりついた鉄仮面が、ふと見ると、いましもじぶんののぼってきたつるが、はげしくゆれている。だれかがうしろからのぼってくるのだ。ハッとした鉄仮面が下を見ると、屋根のひさしから、ニョッキリと顔を出しているのは、うたがうべくもない、第二の鉄仮面なのだ。 「わはははははは、きやがったな、この生命《いのち》しらずのにせものめ! こうなったらもうこっちのものだ。どれ、あっさりケリをつけてやろうか」  といいながらスラリと抜《ぬ》きはなったのは一ちょうの短刀。こいつをつるの上にぴたりとあてると、 「そら、このつるをきってしまえば、きさまのからだは、高い崖《がけ》から落ちて、こっぱみじんとくだけてしまうわ。ははははは、いいざまだ」  ああ、なんということだ。由利先生はあまりあせりすぎたのではあるまいか。いかに悪魔《あくま》といっても、いつまでもこんな塔の上にがんばっていられるはずはない。先生はむしろ相手がこうさんして、おりてくるのを待っているほうがよかったのに、なまじ相手を早く捕《つか》まえようと、あとを追ってきたために、このようなはめにおちてしまったのだ。 「そら、こうすればどうする」  とつじょ、短刀の刃《は》がキラリとひかって、闇夜《やみよ》にひらめくと見ると、つるはそこからプツリときれた。 「うわーッ!」と、するどい悲鳴。やがてはるか下の崖のすその、波の音にまじって、ボシャッというような、鈍《にぶ》い物音がきこえてきた。うす暗い空には、月も星もない。どこやらで夜ガラスの声がふた声、三声。  クモのように塔上に吸《す》いついていた鉄仮面は、しばらく、じっときき耳をたてていたが、やがて、ホッとしたように、かるく肩《かた》をゆすると、こんどはまた、別のつるをつたってスルスルとおりてくる。  やがて、鐘楼《しようろう》の窓《まど》まで来ると、ポンとなかへとびこんだ。 「ああ、ひどい目に会わせやがった。しかし、いったいあいつは何者だろう。だれにしろ、この古城《こじよう》に目をつけたからにゃ、こいつゆだんはならないぞ」  と、口のなかでつぶやきつつ、窓からからだをのりだすと、くすぶったような銀色の波間に、ゆらりゆらり、ただよっているのは、たしかにさきほどのにせ鉄仮面。 「ふふふ、ここから落ちた以上、とうていたすからぬのはわかっているが、だが、どうも気がかりじゃて」  と、不安そうにつぶやきながら、それでもソワソワした急ぎ足で、もとの廊下《ろうか》へととってかえす。見ると、さっきのところには、妙子があいかわらず、気をうしなってたおれているのだ。 「よしよし、いい子だ、まだここにいたな」  と、いいながら、しかし鉄仮面は、妙子のそばへ寄《よ》ろうともせず、そのまま、ツツツと進みよったのはあの四角いのぞき穴《あな》だ。  部屋《へや》のなかはどうしたのか、シーンとしずまりかえっている。もはや、あのおそるべきニシキ蛇《へび》のはいまわる音もきこえないし、文代の悲鳴もとだえている。さすがの鉄仮面も、ゾッとしたように身をすくめたが、それでもむりに勇気をふるうと、おそるおそるのぞき穴から内部をのぞいて見た。だが、そのとたん、「あっ!」と、さすがなさけ知らずの鉄仮面も、思わずうしろにとびのいたのだ。  見よ! ほの暗い部屋いっぱいに、あの大きなニシキ蛇がとぐろをまいているではないか。しかも、そのとぐろの中心に見えるのは、ああ、白い手、ロウのようにつややかな足。  さすがの鉄仮面も、それ以上、このものすごい光景を、見つめていることはできなかったとみえる。ピタリとのぞき穴のドアをしめると、思わず仮面の下で汗《あせ》をふいた。 「ああ、かわいそうだが、これもしかたがないことだ。親の因果《いんが》が子にむくうとは、まったく、このことだな」  いろいろやってきたかれの悪事のうちでも、これほど、おそろしくも、また冷血な犯罪《はんざい》はないだろう。しばらくかれは口のなかで、なにやらブツブツとつぶやいていたが、やがて思いきったように、妙子のからだを抱《だ》きあげると、暗い廊下を通って、奥《おく》まった一室へ帰ってきた。そこがかれの部屋なのだ。  部屋のなかにはさまざまなめずらしい道具や置き物がかざってある。壁《かべ》には大きな水牛の角《つの》、南洋の原住民の使うような奇妙《きみよう》な吹《ふ》き矢、それからかれがしばしば使用する、あのアルミニウム短剣《たんけん》をぶっ放す銃《じゆう》など、悪魔《あくま》の本拠《ほんきよ》にふさわしい、世にも奇怪《きかい》な兇器《きようき》がたくさんあった。  鉄仮面はこの部屋のなかに妙子を抱きこむと、どっかとそばの長椅子《ながいす》の上に、そのからだを投げ出し、さて、じぶんは立てつづけに二、三|杯《ばい》、ウイスキーをのんだ。すると、いくらか勇気がかいふくしたのだろう。しばらく、おかしな声をあげて、ゲラゲラと笑っていたが、そのうちに、ふと、かれはその笑い声をやめて、フーッとばかりにあたりを見まわすのだ。そのとき、どこやらで、かすかなすすり泣きの声が聞こえてきたからである。  妙子か——? いや、妙子はぐっすりと眠《ねむ》っている。しかも、そのすすり泣きはすぐ近くで聞こえてくるのだ。鉄仮面はふいに、つかつかと部屋を横切って、片《かた》すみにたれている重いカーテンをサッとまくりあげた。——と、そのとたん、かれは世にも奇妙な叫《さけ》び声をあげてうしろにとびのいたのである。  カーテンのかげには、大きなベッドがあった。そしてそのベッドの上に、すやすやと眠っているのは、ああ、なんということだ。たったいま、蛇に、巻《ま》きころされているところを、見てきたばかりのあの文代ではないか。 「あっ!」と、鉄仮面は思わずカーテンにしがみついた。それから、ねんのために、ベッドの上に身をかがめて、文代の顔をもういちど見なおそうとした。と、そのとき、ふいにカーテンのかげから、やにわに腕《うで》をのばして、ムンズとばかりに、かれの腕をつかんだ者がある。氷のように冷たい手なのだ。 「だ、だれだ!」  と、その手を振《ふ》りきってサッと一歩うしろへとびのいた鉄仮面、おそれたようにそうどなりつけると、その声におうじるかのように、フラフラと、カーテンのかげからはい出してきたのは、ああ、なんということだ、またしてもにせ鉄仮面! しかも全身に血をあびて、冷たい鉄製《てつせい》の仮面の唇《くちびる》から、タラタラと血を流しているその気味悪さ。  さすがの鉄仮面も、思わず髪《かみ》の毛がさかだつような気がした。 「い、いったい、き、きさまはなにものだ!」  と、叫《さけ》んだが、相手は無言。まるで幽霊《ゆうれい》のようにフラフラと、こちらへ近よってくる。その気味悪さったらない。 「こんちくしょう!」  と、鉄仮面はやにわにテーブルの引き出しからピストルを取り出し、ダン、ダン、ダン、二、三発ぶっ放したが、相手はビクともしない。かえって、 「ひひひひひひ」と、ひくいふくみ笑いの気味悪さ。 「うぬ!」  と、こんどは、壁《かべ》にかけてあったサーベルを取りあげると、柄《つか》をもとおれとばかりに、相手のからだに突《つ》き刺《さ》したが、なんという奇怪《きかい》、サーベルは相手のからだにふれたとたん、カチーンと音を立て、三つに折れて床《ゆか》にとんだ。  鉄仮面はいよいよ、奇怪な恐怖《きようふ》のとりことなった。  こいつはいったい、人か魔《ま》か。かれが一歩さがれば、相手はジリジリと一歩前進する。鉄仮面はしだいに部屋《へや》の入り口のほうへ追いつめられていく。やがてドアのそばまできたとき、鉄仮面はふいに、 「うわッ!」と、悲鳴をあげて、廊下《ろうか》へととび出した。  まるで、逃《に》げてゆく鼠《ねずみ》のようなかっこうだ。暗い廊下をやたらめっぽう、めちゃくちゃにかけずりまわったが、やがていくらかつかれたのだろう、廊下のはじにかざってあるよろい武者《むしや》のそばまでくると、ホッとしたように、それによりかかって汗《あせ》をふく。別にだれも追いかけてくるような様子はみえない。古城《こじよう》のなかは例によって死のような静けさ。 「はてな、おれは夢《ゆめ》でも見ているのじゃなかろうか。ばかばかしい、死人が生きかえるなんて、そんなばかなことがあるものか。今夜はよっぽどどうかしてるぞ。おい、鉄仮面、きさまもすこしヤキがまわったな。ははははは!」  ゾッとするような笑い声が、古城の壁《かべ》にひびく。その笑い声に、じっと耳をすましているうちに、鉄仮面はなにを思ったのか、ふいにハッとしてうしろへとびのいた。いままで、なんの気もなしに寄《よ》りかかっていたそのよろい武者に、ほのかなあたたかみをかんじたからなのだ。いやいや、あたたかみばかりではない。ズキン、ズキンと、心臓《しんぞう》のこどうに似《に》た脈の音さえかんじられるのだ。(ばかな! そんなことが、——これは単なるこしらえものの人間にちがいないじゃないか)だが、ああ、これはどうしたというのだ。そのこしらえもののよろい武者が、かすかに身うごきをはじめたではないか。 「うわッ!」  と、鉄仮面はまたもや、おそろしさにふるえあがった。悲鳴をあげて、二、三歩うしろへとびのいたとたん、それが、あいずでもあったかのように、うす暗い廊下《ろうか》の両がわに、ズラリとならんでいた像《ぞう》や、よろい武者が、いっせいにワラワラと身うごきをはじめたのである。  ああ、いったい、この光景を、なんにたとえたらよいであろうか。  月あかりさえささぬ迷路《めいろ》のような廊下の両がわから、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、……十にあまる武者人形や、像が、いっせいに、うごきだしたのだから、その光景の気味悪さ。  さすがの鉄仮面も、髪《かみ》の毛が白くなるような、おそろしさに打たれたのもむりはない。十にあまる像や武者人形は、やがて、おのおのの台からおりて、ジリジリと鉄仮面のほうへ近よってくる。鉄仮面は、悪夢《あくむ》にうなされるような声をあげ、一歩ひき、二歩うしろへよろめく。  それをとりまくようなかたちで、奇怪《きかい》な化け物たちは、もくもくとして前進する。日本風のよろい武者、西洋風の甲冑騎士《かつちゆうきし》、ヤリを持ったアポロの像もいれば、羽のはえたサンダルをはいているマーキュリーの像もいる。からだじゅうに大きな蛇《へび》をまきつけたラオコーンの像もいる。  鉄仮面は、いまやまったくの袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》。一方の廊下のはしからもう一方のはしへ、ジリジリと追いつめられた。かれの行く手はただ一つ。それはたったいま、逃《に》げ出してきたばかりの、あの部屋《へや》のドアがあるだけなのだ。  鉄仮面はついにそのドアの前まで追いつめられてきた。 「ははははは、まあ、こちらへはいりたまえ。逃げようたって、逃げられないことは、これで、わかったろう。そうキョロキョロせずに、なかへおはいり」  と、部屋のなかから声をかけたのは、なんとあの血まみれのにせ鉄仮面ではないか。  さすがの大悪党の鉄仮面も、こうなったら絶体絶命《ぜつたいぜつめい》、しばらくかれはぼうぜんとしてじぶんのまわりをながめていたが、追いつめられてかえってヤケクソになったのだ。 「うぬ! さてはきさまが首領《しゆりよう》だな、いったい、きさまは何者だ!」  と、叫《さけ》んだかと思うと、いきなり、相手にむしゃぶりつき、サッとばかりにその仮面をはぎとったが、そのとたん、 「ヤ! ヤ! これは——」と、ばかり、世にも異様《いよう》な叫び声をあげて、うしろにとびのいたのである。仮面の下からあらわれたのは、度の強い近眼鏡《きんがんきよう》に、ショボショボとはえた長い山羊《やぎ》ひげ、 おなじみの矢田貝修三《やだがいしゆうぞう》博士《はかせ》の顔なのだ。 それにしても、この顔を見たときの鉄仮面のお どろきよう! そのあまりの異常《いじよう》さには、なにかわけがあるのではなかろうか。 「ははははは、きみたち、ごくろうごくろう。とんだおしばいでしたな。どうぞ、もうそのふんそうをおとりになってください」  と、ズラリとドアの前にいならんだ、例のよろい武者《むしや》たちのひとむれにそう声をかけたのは、いわずと知れた矢田貝博士の顔をした男。——しかし、奇妙《きみよう》なことには、その声は、どこか、いつもの矢田貝博士とちがっているところがあった。  それはともかく、博士の一言にうなずきあいながら、てんでにふんそうをといたところを見ると、なんとこれがすべて読者しょくんのおなじみの人物。まず第一に、あのよろい武者《むしや》は三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、アポロの像《ぞう》は御子柴進《みこしばすすむ》少年、それからいつのまにやって来たのか、等々力警部《とどろきけいぶ》もいれば、新日報社《しんにつぽうしや》の編集長《へんしゆうちよう》、鮫島《さめじま》氏までいようというわけ。そのほかはすべて、等々力警部がつれてきた、部下の刑事《けいじ》たちらしい。  これらの顔をまぢかに見たとき、鉄仮面はいちいち、心中のおどろきをかくすことができぬように、思わず深いうめき声をもらすのだ。 「ははははは、こうしてきみたちのふんそうをといていただいたからには、どれ、わがはいもひとつ、このやっかいな山羊ひげをとるとしようか」  と、そういいながら、眼鏡《めがね》をはずし、山羊ひげをむしりとったところを見れば、意外や意外、矢田貝博士と思いきや、これはさきほど、崖下《がけした》へついらくしたはずの由利先生ではないか。それにしても由利先生、なんだってまた、矢田貝博士のふんそうをしていたのだろう。  それはさておき由利先生の顔を見たときの、鉄仮面のおどろきようったらなかった。 「や、や、きさまは由利|麟太郎《りんたろう》だな」 「ふむ、おれは由利麟太郎にちがいないが、きさまはよくおれの顔を知っていたな」  鉄仮面はそれにも答えず、 「それじゃ、さっきのいたずらは、みんなきさまのしわざだな」 「ははははは、おい鉄仮面、きさまらしくもない。いまごろやっと気がついたのかい。さっききさまが塔《とう》の上から、突き落としたと思っているのは、ありゃ身がわり人形だぞ。それからまた、蛇《へび》にまかれていたのは、ありゃいつかきさまが、小石川《こいしかわ》の矢田貝博士の邸宅《ていたく》から、文代さんを誘拐《ゆうかい》するとき、身がわりに使ったロウ人形さ。なあに、ちょっと、きさまのまねをしてみただけのことさ。まさか、じぶんのほったわなに、みずから落ちようとは、さすがのきさまも気がつかなかったとみえるな」 「まいった。さすがは由利麟太郎だ。それにしても、きさまは、いつ外国から帰ってきたのだ。おれはきさまが帰るまでに、すべてかたづけにかかったのだが。……まあいい、今日のところは、かんぜんにわがはいの負けだ」  さすがは大悪党《だいあくとう》だけあって、わるびれたところは少しもない。まるで世間話でもするような口ぶりで、しゃあしゃあとじぶんの負けをみとめるのだ。 「ところで、由利麟太郎、きさまこのおれをどうしようというのだね」 「なあに、ちょっときさまの正体を見せてもらおうというのさ」 「よし、きた、おやすいご用だ」  と、いうかと思うと鉄仮面、すばやく顔にかぶっていた仮面をかなぐりすてたが、その下から出てきた顔は、いうまでもなく東座蓉堂《ひがしざようどう》。 「どうだ、これでいいか」 「ははははは、それは東座蓉堂の顔だな。しかしなあ鉄仮面、おれのいうのはそれじゃない。その顔のかげにかくれている、もう一つの仮面を見せてもらいたいのだ」 「なんだと?」  蓉堂は思わず目をいからせて、由利先生の顔をながめたが、とつぜん、大声をあげて笑うと、 「おやおや、するときさまは何もかも見すかしたな。こいつは大笑いだ。ははははは、さすがは由利麟太郎、そこまで知っているとは感心かんしん」  といったかと思うと、何がおかしいのか、腹《はら》をかかえて笑いころげている鉄仮面を、見むきもしないで由利先生、かたわらにひかえている三津木俊助や等々力警部、それから鮫島編集長のほうをふりむくと、 「さあ、きみたち、いまこそ、この男のおそるべき正体の種明かしをしてごらんにいれましょう。おい鉄仮面、きさまもかくごはできているだろうな」 「いいとも、こうなったら、破《やぶ》れかぶれだ。みなさん、さぞおおどろきなさるぜ」  と、いかにもおもしろそうにいいながら、クルリとむこうをむいてなにかやっていたが、みるみるうちにそのからだつきからして変わってきた。いままでシャンとのびていたからだが、弓のようにまがったかとおもうと、やがてヨボヨボとしたあしどりで、 「ははははは、みなさん、おそろいじゃな。これは、これはめずらしい」  と、声までうって変わったしわがれ声。なんとなくききおぼえのあるその声に、一同がハッとして、目を見はったとたん、くるりとこちらをふりかえったその顔は、ああ、なんということだ、こんどこそまちがいもなく矢田貝修三老博士ではないか。 「あっ!」  そのとたん、天地がひっくりかえったような混乱《こんらん》が、その一室にわき起こった。  俊助も御子柴進少年も、警部も編集長も、さながら、じぶんの目を疑《うたが》うように、このふしぎな人物の顔をみまもっている。矢田貝博士が鉄仮面? ああ、そんなばかなことが信じられるだろうか。しかし、しかし、いま現《げん》にじぶんたちの目の前に立っているのは、まぎれもない、矢田貝修三老博士その人なのだ。しかもその人は一しゅんかんまえまでは、たしかに東座蓉堂としてじぶんたちの前に立っていた! なんというおそろしい秘密《ひみつ》! なんというすばらしいペテン! 「先生」  と、俊助は思わず声をあげた。 「そ、それじゃ、矢田貝博士が東座蓉堂?」 「そうだよ、三津木くん。きみたちのような優秀《ゆうしゆう》な記者がこの事実に気がつかなかったとは、じつにうかつだったね。なぜといって、矢田貝博士はさいしょから、ちゃんとそのことを広告しているんだぜ」 「広告?」  と、警部が思わずふしぎそうに口を入れた。 「そうですとも。ぼくは日本へ帰ってきて、こんどの事件《じけん》を新聞で読んだとき、すぐさまそれと気がついたのです。つまり矢田貝修三博士と、東座蓉堂なる人物が同じ人間であることを。見たまえ、これを」  と、いいながら、由利先生がエンピツと紙を取り出して、すらすらとその上に書いたのは、    12345678  ヤダガヒシウザウ  43571628  ヒガシザヤウダウ    という二行のかたかなのなまえ。 「見たまえ、こういうふうに、ふたつの名まえをかたかなに書きあらためればすぐわかる。つまり東座蓉堂という名は、矢田貝修三なる名の、かなの置き換えからできている名まえなんだ」 「あっ!」  と、俊助は思わず息をのみこんだ。  等々力警部と鮫島編集長は、あまりの意外さに、ぼうぜんとして、そこに立ちすくんでしまった。そのなかにあって、ただひとり、ニヤニヤと笑っているのは、いまや、おそるべき仮面をはぎとられた鉄仮面。かれはすでに、のがれぬところとあきらめて、このようにしんみょうにしているのだろうか。いやいや悪魔《あくま》の知恵《ちえ》には、二重にも三重にも奥《おく》の手がある。鉄仮面はこういう話のうちにも、なにかしらまたすばらしい悪だくみを考えているのではなかろうか。  それはさておき、由利先生、あまりの意外さに、ぼうぜんとして、立ちすくんでいる一同の顔を見まわしながら、 「ぼくはこの事実に気がつくと、すぐにもういちど、この事件《じけん》を、さいしょから考えなおしてみたんだ。すると、いままでとけなかった謎《なぞ》のすべてが、はっきりわかってくるじゃないか。矢田貝博士すなわち鉄仮面と考えてみれば、唐沢雷太《からさわらいた》が殺された事件のばあいも、香椎文代誘拐《かしいふみよゆうかい》事件のなぞも、さらにまた、恩田《おんだ》の殺人も、すべてがなっとくがいく。恩田を殺した飛来の短剣《たんけん》は、窓《まど》の外からとんで来たのじゃなくて、実はそばにいた矢田貝博士が投げつけたものなんだ。こう気がついたぼくは、それからあと、ひそかに、矢田貝博士の行動に注意しはじめた。すると、博士がさいきんになって、この古城《こじよう》を人知れず手に入れたことがわかってきたのだ。それ以後のことは、いまさらわたしの口から説明するまでもあるまいと思う」  ああ、なんというするどい発見、なんというすばらしい推理《すいり》だろう。ほかの人間が何か月というあいだ、つねに、矢田貝博士と行動をともにしながら、ついにみやぶることのできなかった秘密《ひみつ》を、由利先生は新聞で読んだだけで、いっぺんにみやぶってしまったのだ。  さすがに、ほかの人間はいささかきまりわるそうである。 「はははははは、おい、由利麟太郎。きさまの演説《えんぜつ》はもうそれでおしまいかい」 「ふむ、まあ、これぐらいにしておこう」 「そうか、よし、それでこのおれをいったいどうしようというのだ」 「お気のどくだが、これから用意の自動車で、東京の警視庁までいってもらおうというわけだよ」 「おやおや」  と、蓉堂はさもあわれっぽく、肩《かた》をすぼめながら、 「すると、いよいよ、鉄仮面、逮捕《たいほ》というわけか。いやはやお気のどくみたいなことになったな」 「ふふふ、それもこれも罪《つみ》のむくいだ。あきらめろ。さあ、用意がよければ、しょくん、そろそろ、出発しようじゃないか」 「おい、ちょっと、待ってくれ」 「なにかまだ用事があるのかい」 「きさまも男だろう。まさか、こんななりで、おれをひっぱっていくほど、無慈悲《むじひ》な男じゃあるまい。着がえぐらいさせてくれてもよかろう」 「なるほど、これはおれが悪かった。よし、それじゃいそいで身じたくをしたまえ」 「ありがたい。さすがは由利麟太郎だな。法にもなさけありというところか」  と、むだぐちをたたきながら東座蓉堂、すばやくうわ着をぬぎかけたが、きゅうに気がついたように、 「いけない、いけないよ。みなさまの目の前で、そんなしつれいなまねはできやしない。おい、由利麟太郎、ちょっとほかの人に廊下《ろうか》に出てもらってくれないか」 「なに?」  と、由利先生はちょっとまゆをしかめたが、べつに相手にこんたんがあるとは思えない。たとえ、相手になんらかのたくらみがあるとしても、ドアひとつへだてた廊下に、一同を待たせておくのに、なんの危険《きけん》があるだろう。この部屋《へや》にあやしげな抜《ぬ》け穴《あな》などないことは、あらかじめ、由利先生はちゃんと調べておいたのだ。 「きみたち、この男がああいうから、ちょっと、廊下へ出てやってくれたまえ」 「先生、だいじょうぶですか」 「ナーニ、だいじょうぶだとも、あとにはおれがひかえている。変なまねをしたら、すぐ呼《よ》ぶからはいってきてくれたまえ」  先生の一言に、一同は安心してゾロゾロと廊下へ出ていった。ドアをピタリとしめると、由利先生、 「どうだ、これでいいだろう」 「いや、ありがとう。すると部屋のなかには、おれと由利麟太郎のふたり、それからここに気をうしなっている妙子と、むこうのベッドにいる文代の、四人だけということになったな。いや、けっこうけっこう」  と、そういいながら、東座蓉堂、鏡の前に立って、しばらく、身づくろいをしていたが、やがてきちんとした紳士《しんし》の服装《ふくそう》になって、ニヤッとばかりにふりかえる。それを見ると由利先生、 「よし、用意ができたな。用意ができたらさっそく出かけよう」 「出かける? どこへ?」と、蓉堂は、わざとふしぎそうに聞きかえす。 「どこへって、きまってるじゃないか、警視庁だ」 「おれァ、いやだよ」  と、ズバリ、鉄仮面はいい放つと、平然としてポケットから葉巻《はまき》を出して吸《す》いだした。 「いや?」 「いやだね。警視庁なんてまっぴらだね。おれァ虫が好かんよ。ほかのところなら行ってもいいが」 「きさま!」  と、いいかけたが、由利先生、ふいにサッと恐怖《きようふ》の色を顔いっぱいに浮《う》かべる。あまりにも自信にみちた相手のたいど——そこにはなにか、おそろしいこんたんがあるのではないか。 「ははははは、おい、由利麟太郎、さすがのきさまもそろそろ心配になってきたな。おい、心配なら仲間を呼びな。廊下に待たせてある仲間を呼べばいいじゃないか」 「よし、いわれるまでもない!」  と、由利先生はすぐさま、ツカツカと部屋を横切ると、さっとばかりにドアをひらいたが、そのとたん、さすがの由利先生もあっとばかりにそこに立ちすくんでしまったのだ。 「ははははは、どうだ、おい、由利麟太郎。きさまの仲間はそこにいるかい」  いないのだ。これはいったいどうしたというのだ。天にのぼったのか、地に吸いこまれたのか、たったいま、その廊下へ出ていった一同は、奇怪《きかい》にも煙《けむり》のように消えてしまっているのである。 [#改ページ] [#小見出し]  人間地図 「おい、どうだね、由利麟太郎《ゆりりんたろう》くん。きさまの仲間はそのへんにいるかね」  鉄仮面《てつかめん》のこばかにしたような笑い声が、まるでカミナリのように、ガンガンと由利先生の耳にひびくのである。  いないのだ。由利先生は長い廊下《ろうか》のあとさきを、ズッと見まわし、 「三津木《みつぎ》くん、三津木くん。等々力警部《とどろきけいぶ》はいないか」  と、呼《よ》んでみたが、こたえるのはしいんとした古城《こじよう》の壁《かべ》に響《ひび》く、ぶきみなこだまばかり。俊助《しゆんすけ》はもちろん、等々力警部も鮫島編集長《さめじまへんしゆうちよう》も、一しゅんにして廊下からかき消えてしまったのである。  ああ、なんというおそるべき、悪魔《あくま》の妖術《ようじゆつ》! さすが豪胆《ごうたん》な由利先生も、しばらくはぼうぜんとしてその場に立ちすくんでしまった。 「うわははははは。どうだい由利くん、じつにすばらしい大奇術《だいきじゆつ》、大魔術じゃないか。きさまの仲間はまるで煙《けむり》みたいに消えてしまった。うんともすんともいわずに。ハハハハハ、ゆかい、ゆかい。さあ、こうなりゃきさまとおれのふたりきり、つまり一対一だ。さあこれからゆっくり勝負をしようじゃないか」  鉄仮面の東座蓉堂《ひがしざようどう》、そういうと、ふいにキラリと目をひからせ、かたわらにあった青銅《せいどう》の置き物を手にすると、悪魔のように、由利先生におどりかかってきたのである。  さて、このおさまりがどうなったか。だが、ここで作者は筆をすこしもとへもどして、廊下の外に待っていた三津木俊助や、そのほかの人びとのことについて語ろうと思うのである。  由利先生にうながされて、ひとまず廊下へなだれ出た三津木俊助や等々力警部、あるいは鮫島編集長やそのほかおおぜいの刑事《けいじ》たちはどうなったのであろうか。  いや、じっさいのことをお話すると、かれらはどうなりもしなかったのだ。由利先生のことばにしたがって、ただしんみょうに廊下にひかえていただけの話なのである。  ところが、いつまで待っても、由利先生が、部屋《へや》のなかから出てこない。三分とすぎ、五分とすぎた。しかも、部屋のなかからはなんのへんじも聞こえない。鉄仮面が着がえをするにしても、あまり時間がながすぎる。廊下の外に待っていたものたちの面にも、しだいに不安の色がこくなってきた。 「どうしたのでしょう。すこし時間がながすぎやしませんか」 「おかしいね、ひとつ三津木くん、様子をきいてみたまえな」  と、鮫島編集長のことばに、 「承知《しようち》しました」  と、ドアのそばに近づいた三津木俊助。 「先生、先生」  と、呼《よ》んでみたが答えはない。 「先生、由利先生、用意はできましたか」  と、声をはりあげたが、部屋のなかはあいかわらずしんとしずまりかえっている。一同の顔には、さっと不安の色がひろがっていく。 「三津木くん、どきたまえ。ぼくがひとつ呼んでみよう」  俊助にかわった等々力警部が、さざえのようなげんこつをかためて、ドンドンとドアをたたきながら、 「先生、先生、由利先生、ここをあけてください。みんな待っていますよ。由利先生」  と、大声でわめいたが、いぜんとしてへんじはないのだ。さあ、いよいよただごとではない。ひょっとすると、鉄仮面のやつが、由利先生を。—— 「三津木くん、こりゃたいへんだ、ぐずぐずしちゃいられない。おい、みんな手をかしてくれたまえ。このドアをやぶってみよう」  と、警部のことばと同時に、バラバラと、前におどり出た数名の刑事《けいじ》たち、やにわにドシン、ドシン、大きなからだをドアにぶっつける。しかし古びているといっても、もともとガッチリとつくった古城《こじよう》のドアは、なかなかそんななまやさしいことでやぶれるものではない。 「おい、そこらに、なにか道具はないか」 「先生、これはどうでしょう」  と、前に進み出たのは、アポロのふんそうをした、御子柴進《みこしばすすむ》少年だ。手にしていたアポロのしゃく杖《じよう》(鉄の杖《つえ》)を差し出すと、これはいいものがあったとばかり、三津木俊助、こいつをさか手に、ドアのすきまへねじこむと、 「きみたちも、手伝ってくれたまえ、このしゃく杖が折れるか、ドアのちょうつがいがはずれるかだ」  ただちに、俊助のそばにむらがり寄《よ》った刑事一同。ワン、ツウ、スリーのかけごえもろともしゃく杖を逆《ぎやく》に、うんとひねれば、バリバリバリ! ものすごいひびきとともに、パッと立ちあがる砂煙《すなけむり》。さしもがんじょうなドアもガクンとばかりに大きな口をひらいたのだ。 「それひらいたぞ!」  と、そういううちにも、心がせく、俊助はまっ先に立って、部屋《へや》のなかへおどりこんだが、そのとたん、 「や! や! こ、これは……」  俊助をはじめとして、一同の者は、思わず部屋の入り口に棒立《ぼうだ》ちになってしまった。  部屋のなかはもぬけのから。由利先生はむろんのこと、鉄仮面も妙子《たえこ》も文代《ふみよ》も、まるでかき消すように、その場からすがたを消してしまっているのだ。ああ、なんというふしぎな手品。  由利先生の目から見ると、俊助たちのすがたが消えてしまったように見え、俊助たちの目から見ると、反対に由利先生の方が消えてしまったのだ。  ふしぎもふしぎの二重消失。いったい、これはどうしたというのだろう。  まるで狐《きつね》につままれたような気持ちとは、まったくこのことなのだ。  一同はしばらくぼうぜんとして目を見かわしていたが、 「いったい、これはどうしたというのだ。鉄仮面のやつが、三人の者をつれ去ったのだろうか」  警部がうめくような声をあげた。 「あの短時間に、ばかな! われわれは針《はり》の落ちる音でも聞きのがすまいと、耳をすましていたじゃありませんか。それに由利先生が声ひとつたてないで、相手にやっつけられるなんて、そんなばかなことがあるもんですか」 「しかし、三津木くん、現《げん》にここにはだれもいないのだから、これはやっぱり警部のおっしゃることがただしいようだ。この部屋にはどこか抜《ぬ》け道があって、鉄仮面のやつ、そこから由利先生や、妙子さんや文代さんをつれさっていったにちがいないぜ」 「そうだ。それにちがいない。とにかくみんなでその抜け道というのをさがしてみよう」  そこで室内の大捜索《だいそうさく》がはじまった。等々力警部や鮫島編集長をはじめ、刑事たちはクモのようにはいつくばって、壁《かべ》から床《ゆか》の上をたたいてまわった。しかし、どこにもそれらしい箇所《かしよ》を発見することはできないのだ。 「おい、だれかてんじょうを調べてみろ」  刑事のひとりが、ただちに椅子《いす》を積みかさねて、てんじょうを調べてみたが、そこにも異状《いじよう》はないらしい。 「はてな。こんなはずじゃなかったがな」  と、探《さが》しあぐねた等々力警部が、失望したようにつぶやきながら、身を起こしてみると、俊助はただひとり、アームチェアーの腕木《うでぎ》に腰《こし》をおろしたまま、ゆうゆうと煙草《たばこ》をくゆらしている。警部もさすがにいささかムッとして、 「おいおい、三津木くん、のんきそうに、煙草をすっている場合じゃないぞ。きみもひとつ手をかして、抜け道をさがしてみたらどうだ」 「警部、ぼくがのんきそうに見えますか」 「見えるどころじゃない。われわれが汗《あせ》とほこりまみれになってはいつくばっているのに、きみひとりゆうゆうと煙草をすっているなんて、けしからんじゃないか」 「なるほど、警部がそういうのもむりはありませんが、どっこいそれどころか、ぼくのあたまはいまいそがしく活躍《かつやく》しているんですぜ。警部、それから鮫島編集長も聞いてください。ぼくがいまなにを考えていたかを話しましょうか」  と、三津木俊助は、やおら、アームチェアーからからだを起こすと、靴《くつ》の先で床をさしながら、 「ぼくはね、いま、この床にしいているじゅうたんの破《やぶ》れているのが、どうしてできたか考えていたところですよ」  さあ、俊助が変なことをいいだした。  見ればなるほど、俊助が靴の先でしめしたところには、じゅうたんが大きく破れている。しかもそれが非常《ひじよう》にていねいに、かがってあるのだ。等々力警部と鮫島編集長は、思わず顔を見あわせながら、それでもいくぶんことばをやわらげ、 「三津木くん、このじゅうたんの破れがどうしたというのだ」 「ぼくのいいたいのは、さっきわれわれが出ていくときには、ここにこんな、破れた箇所なんかなかったということです」 「しかし、それがいったいどうしたというんだね」 「まだおわかりになりませんか、編集長。われわれがさっき出ていったときには、こんなところが破れていなかった。ところで編集長、この破れ目をこういう風にていねいにかがるのには、いったいどれくらい時間がかかると思いますか」 「三津木くん!」  と、ふいに編集長がサッと顔色をかえた。 「ふしぎでしょう。このあついじゅうたんの破れ目を、こういうふうにていねいにかがるには、すくなくとも一時間はかかりますよ。ところが、われわれが廊下《ろうか》に立っていた時間は、ほんの三分か五分です。そのあいだに、三人の人間をどこかへかくし、おまけにじゅうたんを破り、それをこんな風に、ていねいにかがる。そんなことができるでしょうか。不可能《ふかのう》です。だんぜんできない相談です」 「しかし、しかし三津木くん、さっきこんなに破れてなかったというのはたしかかね」 「それはじゅうぶん、ぼくを信用してくだすってもけっこうです。それに……」  と、俊助は壁《かべ》の上の刀かけをしめしながら、 「さっき、鉄仮面のやつが、その刀を取りあげて、由利先生におどりかかっていったのを、みなさんもご存知《ぞんじ》でしょう。そのとき、刀はあらかじめ、由利先生が仕掛《しか》けをしておいたので、先生のからだにふれると同時に、三つに折れて床《ゆか》にとんだのですが、その折れた刀が、ちゃんともとどおりにつながって、刀かけにおさまっているのは、これまた、いったいどうしたというのでしょう」 「…………」  さすがの等々力警部も、鮫島編集長も、思わずサッとおどろきの色を顔に浮《う》かべた。  なるほどこれはふしぎだ。じゅうたんの破れたことはともかくとして、刀が三つに折れて床にとんだことは、編集長も警部もよく知っている。それがいま、ちゃんともとのまま壁の刀かけにのっかっているのだから、一同が、思わず狐《きつね》につままれたように、顔を見あわせたのもむりではない。 「三津木くん、三津木くん、いったいこれはどうしたというのだ」 「いやいや、ふしぎなのはそればかりじゃありません。このアームチェアーには、ついさっきまで、妙子さんが寝《ね》かされていたのだから、とうぜんここには、人間のぬくもりがのこっていなければならぬはずでしょう。ところが、いまぼくが部屋《へや》にはいってくるなり、さわってみたところが、こいつ、百年も人がすわったことのないように、まるで氷みたいにひえきっているのです」 「おいおい三津木くん、そうじらさずにいってくれ。それでいったい、きみの考えはどうだというのだ」 「ぼくの考えですか。しごくかんたんですよ。いまわれわれの立っているこの部屋《へや》は、さっきわれわれが出ていった部屋と同じ部屋ではないのです」 「な、なんだって」 「そうです。なるほど壁《かべ》の色、じゅうたんのもよう、椅子《いす》、テーブルの配置から、壁の上のかざりものまで、なにもかもがさっきの部屋とおなじに見えますが、事実はぜんぜんちがっていることを、いまもうしあげたしょうこのかずかずがしめしているのです。すなわち、この古城《こじよう》には、この部屋にまったくちがわぬ部屋がもうひとつあって、われわれが廊下《ろうか》へ出ているすきに、二つの部屋が、なんらかの方法でおきかえられてしまったのです」  ああ、なんというすばらしい推理《すいり》、なんという思いがけない考えだろう。さすが怪奇《かいき》になれた等々力警部も、あまり奇抜《きばつ》な俊助のことばに、ただぼうぜんと立ちすくむばかり。 「しかし、三津木くん。われわれは一しゅんも、ドアから目をはなさなかったのだぜ。どういう方法でやったか知らんが、きみがいうようなことが起こったとしたら、すこしは、われわれの注意をひきそうなものじゃないか」 「ところが編集長、このドアをごらんなさい。このドアは二重になっているんですよ。つまり外がわのは廊下そのものについており、部屋のドアは、そのうちがわについています。だからわれわれが外からながめっこをしていたのは廊下のドアなんで、だから、内がわの部屋のドアにどういう変化が起こりつつあったかまるで見ることはできなかったのです」  俊助のことばもまだおわらないうちに、ふいに御子柴進が部屋の片《かた》すみからとんきょうな声をあげた。 「あ、こんなところにおとし穴《あな》があるぞ」  その声にハッとしてふりかえった三津木俊助、見ると大きなソファーをおしのけた進が、床《ゆか》の一部をおすやいなや、そこにとつぜん、バックリと大きな穴があいたのだ。 「あ!」と、そばへ走り寄って、いっせいにそのおとし穴のなかをのぞきこんだ一同は、とつぜん、 「や、や、こりゃどうだ!」  と、ばかり、棒立《ぼうだ》ちになってしまったのだ。  さすがにものなれたかれらを、このようにおどろかせたというのは、いったい、どんなものであったろうか。ああ、それこそはいままで人間の見たなかで、もっとも怪奇きわまる光景だったのだ。  いまかれらが立っている床下から、十数メートルにあまるふかい縦穴《たてあな》がほられてあって、しかもその縦穴の底には、奇妙《きみよう》な、てんじょうのない部屋が見えるではないか。  しかも、ああ、なんということだ。その部屋はいまかれらがいる部屋と、まったくおなじかっこうをしているのだ。同じじゅうたん、同じ壁紙、そして同じ椅子《いす》にテーブルだ。そしてその部屋こそ、さっきかれらが出ていった、あの鉄仮面の部屋であることは、アームチェアーのなかにぐったりとたおれている妙子のすがたからでもわかるのである。いやいや、妙子ばかりではない、文代もいる、鉄仮面もいる。そして由利先生も。ああ、さっきいった三津木俊助のことばは、やっぱりまちがってはいなかったのだ。この古城《こじよう》にはまったく同じかっこうをした、ふたつの部屋があったのだ。そして——ああ、わかった、わかった。ふたつの部屋は、エレベーターのように連結されていて、ひとつの部屋が床下《ゆかした》ふかくおりていくと、もうひとつの部屋が、ちゃんとそのあとへ、かわりにやってきていたのだ。なんというおそろしい仕掛《しか》け。悪魔《あくま》のからくりとはまったくこのことであろう。これで、由利先生がドアをひらいたとき、そこにだれもいなかったわけもわかる。由利先生がのぞいた廊下《ろうか》というのは、これまた俊助たちの立っていた廊下とまったく同じかっこうをしていたが、じつは、それは地底ふかくこしらえた、まったく、別の廊下だったのだ。由利先生はじぶんでも気がつかぬうちに、エレベーター仕掛けの部屋にとじこめられたまま、地底ふかくはこびさられていったのである。  それはさておいて、いま、上の部屋からのぞいている俊助たちの目の下には、世にもおそろしい光景がくりひろげられている。豆つぶほどに見える鉄仮面が、やにわに青銅《せいどう》の置き物を手にとりあげると、これまた豆つぶほどの由利先生におどりかかっていった。と、ふたつのからだが、くみあったまま、まりのように床の上にころげる。危《あぶ》ない、危ない、由利先生のほうがどうやら不利なのだ。 「先生! 由利先生!」  と、俊助たちはやっきとなって叫《さけ》んだが、どうすることもできない。ふたつの部屋《へや》のあいだには十数メートルという空間が横たわっているのだ。とびおりることはなんでもない。しかし、とびおりたが最後、生命《いのち》はないであろう。  あっ、いったん立ちあがった由利先生がふたたび床《ゆか》の上にたおれた。その上から鉄仮面がイナゴのようにおどりかかっていく。息づまるような生と死との戦いだ。おそろしいのぞきからくりだ。 「ああ、このままにしておいたら、由利先生はやられてしまう。だれか由利先生を助ける者はないのか」 「三津木先生、ぼくがやります」  と、そくざに答えたのは御子柴進だった。 「えっ、きみがやる。どうしてきみにそんなことができるのだ」 「なんでもありません。三津木先生、この床下をのぞいてごらんなさい。太い鉄のくさりが輪になってダラリと下のほうへたれているではありませんか。あのくさりをつたわっておりていけば、下の部屋のすぐ上までおりられます。ぼくはそいつをおりていって、鉄仮面のやつをやっつけてやります」  進はまゆをあげて決然といい放つのだ。なるほど、のぞき穴《あな》から首を突《つ》っこんで床のうらがわを見ると、進のいうように、太い鉄のくさりが輪になって、ダラリと下へたれさがっている。デパートでエレベーターを見たことのある人なら知っているだろう。重い箱を上下させるためについているあの鉄のベルトだ。進は、いまそれをつたわって、この十数メートルの空間をおりていこうというのだ。 「進くん、そんなことができるかい」 「できます。とにかく警部さん、ぼくにピストルをかしてください」 「よし、進くん、それじゃきみにまかせる。よろしくやってくれたまえ。由利先生の生命《いのち》は、きみがにぎっているようなものだからな」 「わかっています。なに、負けるものか」  進は等々力警部の手からピストルを受け取って、そいつをポケットにねじこんだかと思うと、おとし穴《あな》のふちに手をかけ、クルリと、尻《しり》あがりの逆《ぎやく》のようりょうなのだ。床《ゆか》にブラさがったかとみると、二本の足でくさりをそばにかきよせる。  しめた、くさりのはしに足がかかった。と、思うとクルリ、またもや身をそらせて、うまくくさりが手にかかった。こうなるとあとはもうしめたもの。スルスルスル! まるで猿《さる》のようなすばやさなのだ。進はまっくらな縦穴《たてあな》を下へ下へとおりていく。  このとき、下の部屋《へや》では、いましも由利先生と、鉄仮面のあいだに、必死の格闘《かくとう》がつづけられているのだ。由利先生が猛然《もうぜん》として起きあがろうとする。足をあげて、ドンとそれをけった鉄仮面、ふたたび手に取りあげたのは、青銅《せいどう》の置き物。こいつをうんと頭上たかくさしあげたから、あっとばかりに手に汗《あせ》にぎったのは、上の部屋から見ているれんちゅうである。  危《あぶ》ない! 危ない! この青銅をまともにくらったら、どんながんじょうな頭でも、まっぷたつに割《わ》れてしまうだろう。 「あっ!」  と、俊助が思わず目をおおったときである。  ダン! ダン! まっくらな縦穴のとちゅうで、ふいに、あおじろい火花がパッと散った。クモのように鉄ぐさりに吸《す》いついた進が、やにわにピストルを発射《はつしや》したのである。  じつに危ないところだった。進のはなった弾丸《だんがん》は、みごと、鉄仮面の片腕《かたうで》にめいちゅうしたからたまらない。鉄仮面はヨロヨロとよろめいたかと思うと、頭上たかくさし上げた青銅の置き物を、ドシンと床に取り落とした。 「しめた!」  と、こおどりしたのは三津木俊助。やにわに、おとし穴のはしに、手をかけたから、おどろいたのは等々力警部に、鮫島編集長。 「三津木くん、き、きみはいったいどうするのだ」 「どうもしやしません。ぼくもこのくさりをつたわっておりていくんです」 「あぶない。よしたまえ」 「だいじょうぶ、進くんもぼくもおなじ人間だ。かれにできて、ぼくにできないという法はありませんよ」  と、いいおわるやいなや、さっき進がやったと同じ方法でうまく鉄のくさりにすがりつくと、これまた、スルスルと闇《やみ》の縦穴《たてあな》へとおりていく。  人生というものは、意気ごみしだいだ。やる気になって努力すれば、じぶんでも信じられないほどの大事業をなしとげることができるものである。  俊助のそっせんしたふるまいを見て、等々力警部も、どうして、だまって見ていることができよう。 「ようし、三津木くん、おれもいくぞ」 「警部、きみもいくか。よし、それじゃ、おれもいこう」  というわけで、鮫島編集長まで、そのあとにつづいたから、ほかの刑事《けいじ》もだまっているわけにはいかない。われもわれもとそのあとにつづいた。さしも太い鉄のくさりも、たちまち人間の鈴《すず》なりとなってしまった。  さて、こちらは鉄仮面の東座蓉堂。ふいの襲撃《しゆうげき》に身の危険《きけん》をかんじたのか、由利先生のほうはそのまま、いきなり気をうしなっている妙子のからだを抱《だ》き起こすと、それを人質《ひとじち》に、タ、タ、タタとドアから廊下《ろうか》へとびだした。そして、そのまま逃《に》げだすのかと思うと、意外にも、ふたたび引き返してきて、こんどは文代である。文代のからだを抱きあげると、ふたたびそれを人質にとり、たくみに進のねらいをよけながら、タ、タ、タ! またもや廊下へおどり出して、バタンとドアをしめると、そのまますがたをくらましてしまった。 「ちくしょう!」  いまや、くさりの一番下のはしまでおりていた進は、まだその下には三メートル以上の空間があるが、思いきってパッと飛んだ。 「先生、先生! 由利先生!」  はずみをくらって、まりのように二、三度、コロコロところげるのを、やっと起きなおった進はいきなり由利先生のそばへ寄ると、いそいでそのからだを抱き起こす。 「あ、進くん、ありがとう。それじゃいまのピストルはきみだったのだね。ありがとう、ありがとう、きみはおれにとっては文字どおり生命《いのち》の恩人《おんじん》だ」 「先生、そんなことはどうでもいいんです。それより先生、どこもおけがはありませんか」 「ありがとう、いや、ちくしょう、あいつめ、こっぴどく脾腹《ひばら》をけりやがった。あ、痛《いた》、タッ」  顔をしかめて立ち上がる由利先生。進はかいがいしく、そのほこりをはらってやりながら、 「先生、だいじょうぶですか」 「なあにだいじょうぶ、これしきのことに——それより、進くん、三津木俊助や等々力警部はどこへいった」 「だいじょうぶです。三津木先生も、等々力警部も、すぐここへやってくるでしょう」  その進のことばもおわらぬうちに、ふいにかれらの頭上から、 「先生、われわれはここにいますよ。いますぐそこへまいります」  と、聞きおぼえのある俊助の声に、おどろいて上をふりあおいだ由利先生。 「や、や、これは」  と、きもをつぶしたのもむりではない。なにしろハエ取りリボンにすいついたハエのように、太いくさりにいっぱい人がむらがっているのだ。 「はははは、とんだ曲芸です。ほらとびますよ」  と、声もろとも、三津木俊助、つづいて等々力警部に鮫島編集長、さらに刑事たちがつぎつぎにとびおりてきたから、さすがの由利先生もすっかり面くらってしまった。 「こりゃ、どうしたというのだ。この部屋にはてんじょうがなかったのか」  と、ぼうぜんとしてつぶやく由利先生に、みなまでいわせず三津木俊助、 「先生、その話はいずれのちほどいたします。それよりいまは鉄仮面のゆくえです。あいつめ、文代さんや妙子さんをいっしょにつれていってしまいましたよ」 「ちくしょう、それ、まだ遠くはゆくまい。しょくん、いっしょにきてくれたまえ」  ハッとわれにかえった由利先生、いきなりパッと、ドアをけやぶると、廊下《ろうか》のそとへおどり出した。俊助をはじめ一同がそのあとにつづいたことはいうまでもない。  クネクネとまがりくねった長い廊下。——しかし鉄仮面のゆくえを見うしなうような心配はなかったのだ。なぜなら、うずたかく積んだ廊下のほこりに、はっきりと人をひきずっていったあとがふたすじついているからである。 「こっちだ、こっちだ。ちくしょう、あいつ妙子さんと文代さんとを、両手でひきずっていきやがったのだ」  その、ふたすじのみちをついていくと、これはどうしたことだ。とつじょ、廊下のはしがポツンとたち切れて、そこに大きな穴《あな》があいているではないか。 「あ」と、叫《さけ》んだ進が、まっ先に穴のはしにかけよって外をのぞいてみると、すぐ廊下の下にはひたひたと、あおぐろい波が打ちよせている。わかった、わかった。この廊下は岩屋をくり抜《ぬ》いてこしらえたもので、それはそのまま、断崖《だんがい》のすそに大きな口をひらいているのだった。  その口の外がわには、大小さまざまな奇岩《きがん》が、さながら怪獣《かいじゆう》のようにそそり立っている。そしてその岩のまわりに、波が白いうずを巻《ま》いてたわむれているのが、おりからの月明かりに、ぼんやりと見えるのだ。 「や、や、先生、あれは!」  と、そのとき、ふいに俊助が叫んで、由利先生の肩《かた》をつかんだ。その声に、一同が、ふと海面に目をやると、そこに奇妙《きみよう》な船が一|艘浮《そうう》かんでいるのが見えた。船の上には、円筒型《えんとうけい》の筒《つつ》が立っていて、そのそばに、例の鉄仮面がごうぜんと突《つ》っ立っている。 「おい、由利麟太郎、まずきょうの勝負は引きわけというところだな。ははははは、いや、文代と妙子は、このままおれがつれていくから、やっぱりおれの勝ちというところか」  あたりかまわぬ高笑い。それから手を振《ふ》ってみせると、円筒《えんとう》のふたをひらいて、スッポリとそのなかへもぐりこむ。と、たちまち、船はブクブクと海底ふかくすがたを消してしまった。  ああ、豆潜航艇《まめせんこうてい》! 悪魔《あくま》は豆潜航艇によってすがたを消してしまったのである。    こちらはせま苦しい豆潜航艇の一室。その一室で、鉄仮面の東座蓉堂は、ホッとばかりにひたいの汗《あせ》をぬぐった。いかに由利先生が名探偵《めいたんてい》であっても、よもや海底の潜航艇のなかまで追いかけてくる心配はないからだ。  しかもいま、かれの目の前には、妙子と文代が気をうしなって、グッタリと床《ゆか》の上にたおれているのだ。鉄仮面はしばらく、文代のすがたを見まもっていたが、やがてソワソワと両手をこすり合わせると、 「ふふふふふ、さっきはずいぶんおどろかされたわい。てっきり、ニシキ蛇《へび》にしめ殺されたと思った文代のやつが、あのベッドの上にスヤスヤとねむっていやがったのだからな。はははははは、由利麟太郎のやつも味なことをやりやがる。いつのまにやら、文代のやつをたすけ出し、かわりに人形を蛇に抱《だ》かせておきやがったのだな。それに気がつかなかったとは、おい鉄仮面、きさまもよほどどうかしてるぜ」  と、蓉堂は口のなかでブツブツとつぶやきながら、ソロリソロリと文代のほうへ近づいていった。まるで蛇が蛙《かえる》をねらうようなかっこうだ。  やがて、かれはパッと文代のからだにおどりかかると、相手が気をうしなっているのをこれさいわいに、ソロソロとその洋服をぬがせはじめる。うすい洋服はたちまち蓉堂の手によってはぎとられた。そしてその下からあらわれたのは、玉のように白い肌《はだ》。それを見ると蓉堂は息をはずませ、くいいるようにその背《せ》なかを調べはじめたが、ふいに、 「ふうむ!」  と、満足げなうめき声をもらしたのである。  ああ、見よ! 玉のように白い文代の肌に、ありありとほられているのは、奇怪《きかい》な地図のいれずみではないか。  きみたちはここで、つぎのようなことを思いだすであろう。いつか、おそろしい金庫|部屋《べや》へとじこめられた牧野慎蔵《まきのしんぞう》が恐怖《きようふ》のあまり、大金鉱《だいきんこう》のありかをしめす地図が、文代のからだにいれずみされてあることをはくじょうしたのを。鉄仮面が、いま調べているのは、その地図なのだ。ああ、なんという奇怪さ。なんというおそろしさ。ところもあろうに人間の肌に、地図をほっておこうとは。世にもおそろしい人肌《ひとはだ》地図!  蓉堂はしばらく、くい入るようにこの人肌地図をながめていたが、ふいにおやとまゆをしかめた。地図はかんじんのところでポツンと切れているのだ。 「はてな」と、首をかしげながら、もう一度いれずみの線をたどっていったが、何度調べても同じこと。つまり地図はこれ一枚ではなんの役にも立たないのだ。ここにもう一枚、あるいは二枚の地図があって、それを文代の人肌地図にくらべてみないことには、かんじんかなめの、大金鉱《だいきんこう》のありかはわからないのである。 「ちくしょうッ、牧野のやつ、おれをだましやがったな」  と、じだんだをふんでくやしがっても追いつかない。鉄仮面がいかりくるって、ものすごい顔をして突《つ》っ立ったときである。 「大将《たいしよう》、お呼《よ》びになりましたかい?」  と、ドアをあけてはいってきたのは、防水服にスッポリと身を包み、黒いサングラスをかけた男である。どうやらこの豆潜航艇の操縦者《そうじゆうしや》らしい。鉄仮面はドキリとしたように、 「倉沢《くらさわ》か、だれもきさまなんか、呼びゃしねえ。むこうへいってろ」  ぶあいそうにいわれたが、倉沢という男は身うごきもしない。ニヤニヤとうすら笑いを浮《う》かべながら、その場に突っ立っているのだ。 「おい、倉沢、きさま、おれのいうことが聞こえねえのか。あっちへいってろといえばいってろ」 「へへへへ、おい、東座蓉堂。それが、いつかおれがおしえてやった人肌地図だな」 「なんだと!」 「おい、蓉堂、いやさ、鉄仮面。きさまにゃこのおれがだれだかわからないのか」 「な、なにを!」 「ヘン、鉄仮面、いつかはとんだ目にあわせやがったな」  と、いいながら眼鏡《めがね》をとったその顔を見て、 「あ、牧野慎蔵」  と、さすがの鉄仮面も思わず髪《かみ》がさかだつほどの恐怖《きようふ》に打たれた。 「そうよ、その牧野慎蔵さ。いつかは、あの金庫|部屋《べや》で、あやうく生命《いのち》をとられるところだったが、このあいだからそのしかえしの機会を待ちうけていたのだ。おい、蓉堂!」  いったい善人《ぜんにん》なのか、悪人なのか? 思いがけないところですがたを見せた牧野慎蔵は、キッとピストルを身がまえると、フカのようにするどい顔で、 「覚悟《かくご》はいいか」と、叫んだ。 [#改ページ] [#小見出し]  片足《かたあし》の怪老人《かいろうじん》  何が意外といって、これほど意外なできごとがまたとあるだろうか。  いつか鉄仮面《てつかめん》のために、金庫|部屋《べや》のなかで危《あや》うく殺されそこなった牧野慎蔵《まきのしんぞう》——あの帰国したばかりの牧野慎蔵が、ところもあろうに、この海底の豆潜航艇《まめせんこうてい》に、とつじょ、すがたを現《あらわ》したのだから、さすがの鉄仮面もギョッとして、思わずまっさおになってしまったのもむりはない。 「おい、鉄仮面!」  まったく息づまるような一しゅんだった。殺そうと思えば、牧野慎蔵にはいつでも殺せるのだ。人のひとりやふたりを殺したところで、この大海の底のこと、だれに知られる心配もない。それだけになおさら鉄仮面の東座蓉堂《ひがしざようどう》、いよいよまっさおになっていくのだ。  一しゅん! 二しゅん! 蓉堂の顔はしだいに、はげしい苦悩《くのう》と恐怖《きようふ》にゆがんでいく。ひたいには玉のような汗《あせ》がビッショリ。  牧野慎蔵は、それを見るとせせら笑うように、ヒクヒクとピストルをもてあそんでいたが、 「どうだ、蓉堂、すこしはこわいかね」 「こわい!」  と、蓉堂ははき捨《す》てるようにいう。 「ははははは、こわいか。なるほどこわいらしい。きさまのようなやつでも、こわいということを知っているから感心だて。それにしても、おい、蓉堂、いつかはひどい目にあわせやがったな」  鉄仮面のこわがっているのが、牧野にはおもしろくてたまらないのだ。かたわらの椅子《いす》にどっかと馬乗りになると、わざとピストルをブラブラうごかしながら、 「見ろ、おれのこの髪《かみ》を。あのときのおそろしさで、いっぺんにこのとおり、まっ白になってしまいやがった。なんといったっけな、そうそう、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》だ。あの男がやってきてくれなきゃ、おれはまるでセンベイみたいに、ペッシャンコになってしまうところだったんだぜ。なあ、鉄仮面、わかってるかい」 「わかってる」 「それもだれのためだ。みんなおまえのためだぜ。わかってるだろうな」 「わかってる」  と、つぶやきながら、蓉堂は思わず頬《ほお》の汗《あせ》を、手の甲《こう》でぬぐった。 「よし、それがわかってるなら、おれがなんのために、この潜航艇《せんこうてい》のなかへしのびこんでいたかもわかってくれるだろうなあ。おれは、これでも、きさまのかくれ家をさがすには、ずいぶん骨をおったものよ。おい、東座、おれはな、一度うけたうらみは決して忘れねえ男よ」 「そうだ」  と、鉄仮面はうめくように、 「おれもそれをよく知っている。知っていればこそ、きさまがこんなにこわいのよ」 「ははははは!」  と、牧野慎蔵はとつぜん、腹《はら》をかかえて高笑いすると、 「よくいった。さすがは鉄仮面だ。かねて覚悟《かくご》はしていたとみえるな。だがなあ、鉄仮面、おれは、きさまみたいに残酷《ざんこく》な男じゃねえ。それに血を見るのは大きらいだ。人を苦しめながら殺すようなことはしねえから、まあ安心しろ」  牧野慎蔵は立って、文代《ふみよ》のそばへ近づくと、いたいたしいあの背《せ》のいれずみをのぞきこみながら、 「おれの欲《ほ》しいなあ、この地図よ。この地図さえあれば、きさまなんかに用はねえのさ」 「牧野、きさま、その地図をどうするのだ」 「どうするって、知れたことよ。あの大金鉱《だいきんこう》をひとりじめにするまでさ。なあ、東座蓉堂、きさまもかわいそうな男だが、おれもそうとうかわいそうだぜ。わるいやつは、唐沢雷太《からさわらいた》に香椎弁造《かしいべんぞう》のふたりだ。あいつらふたりで大金鉱をよこどりしやがって、おれにはほんの涙《なみだ》ほどのわけまえしかくれやがらなかった。きさまが唐沢のやつを殺して、この地図を手に入れてくれたのは、おれにとっちゃもっけのさいわいだ。礼をいうぜ。おれはいまこそ、この大金鉱の王さまになるんだ。金山王だ、はははははは!」  牧野慎蔵はまるで、酔《よ》ったように、うちょうてんになって口からあわをとばしている。ああ、かれもやはりただの欲《よく》ばり男にすぎなかったのだ。あわれな文代や妙子《たえこ》にとっては、またおそろしい敵《てき》がひとりふえたのだ。 「おい、牧野」  と、鉄仮面がふいに、目をギロリとひからせながら叫《さけ》んだ。 「なんだい、なにか用か」 「きさまがそういう気なら、ひとつ仲よくしようじゃないか」 「仲よく?」 「ふたりでいっしょに、あの金鉱をさがしにいくのだ。そしてもうけは山わけにするのよ」 「いやだ」  と、牧野はそくざに、 「なんのためにきさまの力をかりるひつようがあるのだ。きさまはおれにやぶれたのだぞ。そのおまえになんのために力をかりるのだ。おい、鉄仮面、きさまにゃ用はねえ。とっととここから出ていってもらおう」 「ええ、出ていけ?」 「そうだ。いま、潜航艇《せんこうてい》を水面にだしてやるから、きさまどこへでも勝手なところへ行ってもらいたい」 「そ、そんなむりな」 「何がむりだ。おれはいま、たった一発で、きさまを撃《う》ち殺《ころ》すことだってできるんだぜ。だがなあ、さっきもいったとおり、おれは、血を見るのが大きらいだ。おなさけに、きさまをここからはなしてやろうというのさ」  と、いったかと思うと、牧野慎蔵は壁《かべ》の上にあるボタンをおして、ジリジリとベルを鳴らす。と、潜航艇は水をきってにわかに上昇《じようしよう》しはじめた。ああ、いつのまにやら、牧野は、この豆潜航艇の乗組員をすっかり買収《ばいしゆう》してしまったのだ。  やがて潜航艇はポッカリと水面に浮《う》きあがった。 「さあ、潜航艇をとめてやるから、ここからどこへでもいってもらいたい。待て、待て。そこに気をうしなっているのは、妙子という女だな。その女には用はねえ。おれのひつようなのは、いれずみのあるこの文代だけだ。おい、鉄仮面、妙子をつれて、どこへでも行きやがれ」  ああ、潜航艇の外は、ただまっ暗な、黒ぐろとした大海原。海面は荒《あ》れているのだろう、黒い波が底ぎみのわるいうねりをつくって、はるか数マイルのかなたに見える城《じよう》ケ島《がしま》の燈台《とうだい》も、霧《きり》のためにぼんやりと見える。鉄仮面が、いかに鬼神《きしん》のような魔力《まりよく》があっても、はたしてこの海原を、のりきることができるだろうか。 「行け!」  と、牧野慎蔵の声がするどく夜のあらしをつんざいた。 「牧野慎蔵——あの地図は」  と、いいかけたが、そのことばのおわらぬうち、牧野がいやというほど突《つ》いたからたまらない。ドボーン! もんどり打って鉄仮面が落ちていったあとから、 「ほら、妙子だ。この女もいっしょに地獄《じごく》までつれていってやれ」 「ああッ!」  と、冷たい潮風《しおかぜ》に、しゅんかん息をふきかえした妙子が、必死になって、ていこうするのを、なさけようしゃもなく、足をすくって海中へ。 「あっ!」  暗い海の上に、ブクブクと白いあわが浮《う》いて、波紋《はもん》がしだいに大きくなっていくころ、豆潜航艇はふたたび海中にすがたを消してしまった。  おりから、ドッと白い波頭が、海蛇《うみへび》のようなうねりを見せておし寄せてくる。  ブクブクブク。——。いったん海中ふかく沈んだ鉄仮面、しばらくして、ポッカリと水面に浮かんだかと思うと、そこはさすがになれたもの、むやみにさわぎまわろうとはしない。気をしずめて、しばらくあたりを泳ぎまわっているうちに、ふと手にさわったのは、天の助けか板片《いたきれ》一|枚《まい》。 「しめた!」  これさえあれば、岸におよぎつくのもさして不可能《ふかのう》なことではない。 「ばかめ、牧野のやつ、このうらみは、いつか、かならずはらしてやるぞ」  と、つぶやきながら、しずかに、水をかいているおりから、とつぜん、だれやら、その足にすがりついたかと思うと、グググググ、魚がえさを引くように、鉄仮面のからだは水中ふかくひきずりこまれた。 「あ!」  と、口から、鼻から、潮水をいっぱいのみこんだ鉄仮面、ふたたび水面に浮かびあがると、 「おまえは妙子だな」 「助けて、助けて」  と、妙子はいま、じぶんがむちゅうになってすがりついている相手がだれであるやら、それさえ見わけることはできないのだ。 「よし、助けてやる。助けてやるかわりに、おとなしくしてろよ。さわぎ立てるとかえって水をのむぞ」  こんな人間にも、やっぱり人のなさけというものがあるのだろうか。それとも別にかんがえるところがあったのか、ぐったりとした妙子のからだを小わきにかかえた鉄仮面、たよりにするのは板片《いたきれ》一|枚《まい》なのだ。あとは運《うん》を天にまかせるよりほかにしかたがない。  さいわい、潮《しお》はおそろしいいきおいでグングンと外海から岸のほうへ流れている。ほかにじゃまさえなければ、この潮にのって、岸にながれつくのも、たいして困難《こんなん》とは思えない。 「妙子、しっかりしてろ、だいじょうぶだ」 「…………」  妙子はふたたび気をうしなったのか、ぐったりと板片につかまったままへんじもしない。  クルリ、クルリ! 燈台《とうだい》の灯が霧《きり》のなかにひかったり消えたりして、嵐《あらし》の前ぶれを思わせるように、潮のうねりがしだいに高くなっていった。  と、このときであった。鉄仮面は、ふいにギョッとしたように水のなかで、身をちぢめた。  チクリ? 右の足首に、さすような痛《いた》さなのだ。と思うと、何やらものすごい力で、グイグイと水中ふかく引きずりこまれる。 「あ」と、叫《さけ》ぶにも叫べない海の底。その鉄仮面のまわりを、ものすごく巨大な魚がサッとすさまじいうずをえがきながらまわっている。 「フカだ!」と、気がついたときには、すでにおそかった。大きなフカは、クルリと身をひるがえすと、大きな口をひらいて、まっしぐらに、おそいかかってくる。むちゅうになって、その腹《はら》の下をくぐり抜《ぬ》けた鉄仮面。水中に身をもがきながら、ズラリとふところから引き抜いたのは一本の短刀だ。 「来るなら、こい!」  こうなると、もう半分やけっぱちだ。戦えるだけ戦わなければならない。  フカはさいしょの攻撃《こうげき》に失敗したと見ると、ゆうゆうと獲物《えもの》の周囲をまわっていたが、ふたたびクルリと、身をあおむけにすると、矢のようにおどりかかってくる。おそろしい死闘《しとう》、海底の大活劇《だいかつげき》なのだ。 「あっ!」と、ものすごい痛みを、右の足首にかんじたのと、鉄仮面がグサリとするどい短刀をフカの腹に突《つ》き立てたのと、ほとんど同時だった。  サアッ! と、どすぐろい血が海の底をそめて、ピシリ! 尾《お》が——フカの尾の強い一|撃《げき》が、鉄仮面の右腕《みぎうで》をしびれさせる。 「何くそッ」  なにがなにやら、もういっさいむちゅうだった。突き立てた短刀を、サッとたてに引くと、そのとたん、鉄仮面のからだはポカリと水面に浮《う》きあがった。勝ったのだ! 陸の悪魔《あくま》は、海の魔王にうちかったのだ。  鉄仮面は一しゅんフーッと気が遠くなっていった。  それから、およそ、どのくらいたったろうか。はげしい痛《いた》みに、鉄仮面がふと、息をふき返したとき、だれやらガヤガヤと耳もとでどなる声が聞こえる。 「おい、ちょっと見な。この人はフカにやられたのだぜ。ほら右のひざから下が食いきられているぜ」 「ふうむ、それにしてもよくたすかったもんだな。おおかた、こっちの娘《むすめ》さんとつれだろう」  鉄仮面は、うっすらと目をひらいて見た。すると、じぶんの身はいま、小さな漁船の上に寝《ね》かされているのだ。 (たすかったのだ!)と、そう気がついたとたん、またしても右の足に熱い鉄でもあてられたようなひどい痛さ。 「あ!」フカに足を食いきられたのだ。 「ううむ!」と、思わず知らず、鉄仮面がふかい苦痛《くつう》のうめき声をもらしたときである。ふたたび耳もとで漁師《りようし》が大きな声をあげた。 「あれ、ちょっと見な。この娘さんの背《せ》には、なにやらみょうなものがあるぜ」 「みょうなものってなんだい、父《と》っつぁん」 「いれずみだね。だがおかしいぞ。こりゃ地図みたいじゃないか」  その声に、鉄仮面がギョッとして、半身を起こしたときである。じぶんのすぐそばに寝かされている妙子の——水にぬれて半裸体《はんらたい》になっている背なかには、ああ、なんということだ! 文代の背なかにあったと同じような、地図のいれずみがあったではないか。  奇怪《きかい》なるできごと。妙子と文代のからだに、それぞれ似《に》たようないれずみがあるというのは、いったいどういうわけであろうか。  さらにまた、牧野慎蔵につれ去られた文代の運命は——? それから、フカに片足《かたあし》を食いきられた鉄仮面はどうなったか。それらはしばらくおあずけにしておいて、話をまた変えることにしよう。    あの事件《じけん》からひと月ほどのちのことである。神田須田町《かんだすだちよう》の近くにある難波《なんば》外科医院。いかにもみすぼらしい病院だったが、腕《うで》は案外たしかだというその病院へ、ある日ひょっこりたずねてきた老人があった。 「どこかおわるいですか」 「はあ、じつは足をけがしましてな。それで義足《ぎそく》をこさえていただきたいと思いますので」  老人は鉄縁《てつぶち》の眼鏡《めがね》の奥《おく》で、目をショボショボさせながらいうのだ。 「ははあ、義足ですか。そりゃおやすいご用ですが、どれ、ひとつ、その足というのを拝見《はいけん》しましょうか」  と、難波院長が椅子《いす》をすすめると、老人はズボンの片方《かたほう》をまくりあげて、ひざのあたりからむざんに切断《せつだん》された右足を出して見せた。 「ほほう。これは」  ようやく傷口《きずぐち》がなおったばかりらしい、そのものすごい切り口を見ると、さすが、ものなれた医者も思わず顔をしかめると、 「どうなすったのですか、この傷は」 「なあに、自動車にひかれましてな、ばかな話ですわい」  老人は事もなげにいいはなったが、さすがは職業《しよくぎよう》がらである。難波|医師《いし》はすぐに、この傷口が交通事故によるものではなくて、なにかしら、猛獣《もうじゆう》の歯のようなもので、かみ切られたのであろうことに気がついた。しかし、相手がかくしておくことを、そうふかくほじくるひつようもないと思ったので、 「承知《しようち》しました。それで義足はゴムにしますか。それとも木にしますか」 「そうですな。どちらでも、ぐあいのいいのにしてもらいたいですな。値段《ねだん》は、いくらかかってもかまいませんから」 「そうですか。ではゴムのにしましょう。すこし高くつきますが、そのかわり、よほどぐあいがいいですから」 「どうでしょう。義足をはめると、自由に歩くことができましょうかな」 「そうですね、すぐにというわけにはまいりませんが、練習をなされば、かなり自由にうごけますよ。では一つ、寸法《すんぽう》をとらせていただきましょうか」  老人は足の寸法をとらせると、義足のできあがる日を聞いてたち去った。 「いや、いや、その日にはまちがいなくやってきますから、そのかわり、ちゃんと足に合うようにこしらえといてくださいよ。足がわるいと、二度も三度もやってくるのはめんどうでしてな」  と、老人はそういうと、じぶんの住所も教えずにたち去ったが、はたして、約束の日には、また不自由な足を引きずって難波医院へやってきた。 「どうでしょう。できていますかな」 「ああ、ちょうどいいぐあいです。ゆうべできてきたところでしてね。たぶんうまくあうだろうと思うのです——どれどれ」  難波医師が、かたわらの戸棚《とだな》から、取り出したゴム細工の片足を見ると、老人は、いかにもめずらしそうに、 「なるほど、うまくできたものですな。見たところ、すこしも本物の足と変わりはない。どれ、それではひとつ、はめてもらいますかな」 「では、どうぞ、その手術台《しゆじゆつだい》の上に横になってください」  難波医師は手術台の上に横になった老人の片足《かたあし》をまくりあげたが、そのときふとみょうなことに気がついた。ひざから下を切断《せつだん》されたその片足の肉づきというのが、とても老人とは思えないほどつやつやとして、まるまるとしているのである。 「おや」 「どうかしましたか」 「いえ、なんでもありません。どうです、痛《いた》みますか」 「ああ、すこし」 「なに、すぐなれますよ、ひとつ歩いてごらんなさい」  老人はステッキにすがりながら、二、三メートル、コトコトと部屋《へや》のなかを歩きまわったが、 「ああ、こいつはとてもぐあいがよさそうですわい。ありがとう、ありがとう。おや、先生どうかしましたか」 「い、いえ、な、なんでもありません」 「でも、お顔の色がまっさおですよ。じゃ、とにかくお金をおいていきますよ」  老人はお金をはらうと、逃《に》げるように、外へとび出していったが、そのあとを見送っていた難波医師、何を思ったのか、これまた帽子《ぼうし》をつかむと、いきなりそのあとから外へとび出していったのである。  この難波医師という人は、もとから非常《ひじよう》にものずきな男であった。そして探偵《たんてい》小説や犯罪事件《はんざいじけん》などがとくにすきだった。その難波医師がふと思い出したのは、一か月ほどまえ世間をさわがした、とある新聞の記事。そこにはこんなことが書いてあったのだ。 『けさ神奈川県警察本部《かながわけんけいさつほんぶ》よりおどろくべき報告《ほうこく》がとどいた。けさ、夜|釣《づ》りに出ていた三浦三崎《みうらみさき》の漁師《りようし》二名は、沖合《おきあい》でいまにも溺死《できし》しかかっているひとりの男と少女とをすくいあげたが、奇怪《きかい》にもその男は、命の恩人《おんじん》である二名の漁師を海中に投げこみ、どこへともなく立ち去った。だが、その後の調べで、その男とは人相やかっこうから見て、どうやらちかごろ世間をさわがせている兇悪《きようあく》な犯罪者《はんざいしや》の鉄仮面らしく、しかもかれは、フカにやられたとみえて、右足を切断《せつだん》されていたそうである——』  難波医師はふとこの事を思い出したのだ。 (そうだ。鉄仮面なのだ。あの傷口《きずぐち》といい、あやしい変装《へんそう》といい、——)  難波医師はそう気がつくと、ゾッとするほどのおそろしさに打たれた。思わず相手があやしむまでに、顔色をかえてしまったのである。  もしこれがふつうの人だったら、さっそくこのことを警察へ急報するところだが、生まれつき探偵ずきの難波医師は、そう気がつくと、だれにも知らせず、じぶんで相手の正体をつきとめたくてしようがなくなったのだ。だからこそ、怪老人《かいろうじん》が出ていくと、じぶんもすぐそのあとからとび出していったのである。  さて、こちらはあの奇怪な片足の怪老人だ。うしろから難波医師がつけてくるのを知ってか知らずか、いまはめてもらったばかりの義足《ぎそく》で、ピョイピョイと飛ぶように大通りを横切ると、おりから通りかかったタクシーを呼びとめてとびのった。難波医師は、むろん別なタクシーで、そのあとをつけていったことはいうまでもない。  タクシーは神田《かんだ》から日本橋《にほんばし》へ出、それから隅田川《すみだがわ》をわたると、やがてやってきたのは本所《ほんじよ》の、見るからに暗い感じのあけぼのアパート、その前でピタリととまった。  怪老人はそこでタクシーをおりると、スタスタと、アパートの階段《かいだん》をのぼっていったが、そのときかれは、ジロリとうしろをふりかえると、つけてきた難波医師のタクシーが、百メートルほどむこうでとまるのを見て、ニタリときみのわるい微笑《びしよう》をもらしたのである。  ああ、この怪老人は、とっくのむかしから、難波医師が尾行《びこう》していることを知っていたのだ。知っていながら、医者をここまで引っぱってきたのである。危《あぶ》ない、危ない。難波医師にとってなにかおそろしいわなが待ちうけているのではなかろうか。  そうとは気づかぬ難波医師は、老人のすがたが見えなくなるのを待ちかねて、つかつかとアパートのなかへはいってくると、 「ちょっとおたずねします。このアパートにたしか、足の不自由な、ご老人が住んでいられるはずですが、どの部屋《へや》でしょうか」  と、管理人に聞くと、 「ああ、篠原《しのはら》さんですな。篠原さんなら三階の十三号室ですよ」 「いや、どうもありがとう」  と、ニヤニヤと笑いながら難波医師、あぶなっかしい階段をのぼっていくと、十三号室というのはすぐわかった。  ドアの外に立ってじっときき耳を立ててみたが、部屋のなかはシンとしずまりかえっている。 (ハテナ、いま帰ったはずだが、どうしたのだろう)  首をひねっているおりから、ふいに、部屋のなかから苦しげなうめき声がもれてくる。女の声だ。息もたえだえの女のうなり声なのだ。はっとした難波医師、なにげなくドアをおしてみると、意外にも、ドアはパッとあいた。  だれもいない。部屋のなかはもぬけのからである。おやと医師が目をパチクリさせたとき、またもやはげしい女のうめき声。——その声にふと床《ゆか》の上を見た難波医師は、思わず飛びあがらんばかりにおどろいた。  足もとにおいてある一番の大トランク、それがなんと、まるで生き物でもあるかのようにユラユラとゆれているのだ。しかも、あの息もたえだえなる女のうめき声は、たしかにこのトランクのなかからもれてくるのである。 「わっ!」  と、叫《さけ》んだ難波医師、ころげるようにして階段をかけおりると、イナゴのように管理室へととびこんだ。  さて、アパートからの電話によって、ときをうつさず警視庁から、係官がかけつけてきたことはいうまでもない。ぐうぜんというか、天のたすけといおうか。アパートから電話がかかったときには、ちょうど、警視庁に、由利《ゆり》先生と三津木俊助がいあわせたので、係官たちのなかにはこのふたりのすがたもまじっていたのだ。警官たちは難波医師から、ひととおりの話を聞くと、すぐに三階の十三号室へはいっていった。 「あっ!」  と、かれらがおどろいたのもむりはない。部屋《へや》のなかではあの大トランクが、いよいよはげしく、まるでゆりかごのように、ゴトンゴトンとゆれているのだ。 「おい、だれかあのトランクをあけろ!」  と、等々力警部の命令で、部下の刑事《けいじ》がただちに、トランクにおどりかかって、パッとふたをはねのけたが、そのとたん、さすがの由利先生も思わず、あっと息をのみこんだのだ。なんということだ! トランクのなかにははだかの美人が、くい入るような荒《あら》なわにしばりあげられ、息もたえだえにのたうちまわっているのだ。俊助はひと目その顔を見ると、のけぞるばかりにおどろいた。 「あっ、妙子さんだ!」  妙子はその声を聞いたしゅんかん、安心とはずかしさのために、思わずフーッと気が遠くなってしまった。その妙子の肌《はだ》には、あのいたいたしいいれずみの地図がありありと。——  こうして難波医師によって、妙子は思いがけなくも、ふたたび由利先生や三津木俊助の手にすくわれたのだ。妙子がああして、トランクづめになっていたからには、もはやあの片足《かたあし》の怪老人《かいろうじん》が鉄仮面、東座蓉堂であることはいうまでもない。  それにしても、かれはいったいどこへ行ったのか。妙子が発見されると同時に、アパートのなかがくまなく捜索《そうさく》されたことはいうまでもない。しかし、そのころにはすでに、怪老人のすがたはどこにも発見されなかった。  こうして妙子は思いがけなくも、警官たちの手によってすくわれたのだが、このことをいぶかしく思わずにはいられない人がただひとりいた。いうまでもなく由利先生だ。  鉄仮面ほどの人間が、こうもたやすく、難波医師のようなしろうと探偵《たんてい》にうらをかかれたということが、由利先生にとってはふしぎでならなかったのだ。  これはなにか深い考えがある。あいつがそうやすやすと妙子を人手にわたす男だろうか。負けたと見せた、何かそのうらには、またもや悪い計画を練っているのではなかろうか。——由利先生にはそんな気がしてならないのだが、はたして、由利先生のその心配はあたっていたのである。  それはさておき、こちらはすくいだされた桑野《くわの》妙子。身よりのない彼女《かのじよ》は、せっかくすくいだされはしたものの、さて、どこといって落ちつく先がない。それをかわいそうに思った由利先生は、警視庁と相談のうえ、とりあえず彼女を自宅《じたく》に引きとって、静養させることになった。  打ちつづくおそろしさとつかれと冒険《ぼうけん》のせいで、あわれにも、妙子のからだはいまやすっかり弱りきっているのだ。由利先生の自宅へ引きとられてからというもの、妙子はにわかに、病床《びようしよう》にふしてしまった。  こうして一週間ほどのちのこと。この由利先生の家へ、ある日たずねてきた思いがけない人物がある。いい忘《わす》れたが由利先生の自宅は、麹町三番町《こうじまちさんばんちよう》の市谷《いちがや》のお濠《ほり》を眼下《がんか》に見おろす土手っぷちにあるのだ。この土手っぷちを、いましもまっしぐらに走らせてきた一台の個人《こじん》タクシー、とつぜんハンドルを横に切ると、 「あ、あぶない?」  とあわててブレーキをかけたはずみに、個人タクシーはドシンと由利|邸《てい》の塀《へい》にぶつかった。 「ちくしょうっ、気をつけろ」  と、運転手をどなりつけながら、客席から半身をのりだしたのは、意外にも、あの帰国したばかりの牧野慎蔵である。 「だんな、ごめんなすって、あわれな浮浪者《ふろうしや》でございます。おめぐみくださいまし」  危《あや》うく乗用車としょうとつしそうになったのは、身体障害者用《しんたいしようがいしやよう》の歩行車。乗っているのは髪《かみ》をぼうぼうとのばした、黒眼鏡《くろめがね》の浮浪者である。 「もうちょっとで、タイヤに引っかけるところだった。以後気をつけろ。チェッ」  と、舌《した》うちした牧野慎蔵は、ポケットからいくらかの金を取り出すと、それを歩行車のなかに投げこんでやったが、しかし、このとき牧野が、もっと注意ぶかく、この浮浪者の表情《ひようじよう》に気をつけていたら、この老浮浪者が大きな黒眼鏡の奥《おく》で、ニヤリとうす笑いをもらしたことに気がついたであろう。  ああ、奇怪《きかい》なるこの老浮浪者、かれはいったい何者であろう。  それはさておき、個人タクシーから降《お》り立った牧野慎蔵は、そこが由利先生の家であることに気がつくと、すぐニヤリと微笑《びしよう》をもらして玄関のブザーを鳴らした。それに応《おう》じて現《あらわ》れたのはひとりの助手の少年。 「あ、あいにく、いま先生はおるすですが」  牧野はそれを聞くと、たちまちこまったように、 「それはこまりましたな。じつは鉄仮面のことで大至急《だいしきゆう》お話したいことがあるのですが」 「そうですか。それならしばらく、応接室《おうせつしつ》でお待ち願えませんか。まもなく先生は、お帰りになりますから」  うまくいったとよろこんだ牧野慎蔵。しばらくぽつねんとひとり応接室で待っていたが、なにを思ったのか、ふいにあたりの様子をうかがうと、スルリと廊下《ろうか》へすべり出て、やがて探《さが》しあてたのは妙子の部屋だ。  妙子はいまもすやすやと深い眠《ねむ》りにおちている。それを見ると牧野慎蔵、しめしめとばかりに部屋のなかへしのびこむと、ソッと妙子のパジャマのはしに手をかけた。  ああ、牧野慎蔵。かれは先日の新聞で、妙子の肌《はだ》にも地図のいれずみがあることを知り、ひそかにそれをぬすみ見するためにやってきたのだ。  なにも気づかぬ妙子はゴロリと寝返《ねがえ》りを打つ。その肌の上を、牧野の指が奇妙《きみよう》な昆虫《こんちゆう》のようにはいずりまわる。と、そのとき、ふいにうしろから、 「おやおや、それがはじめてよその家へきた人のする礼儀《れいぎ》ですかね」  と、からかうような声。  ハッとしてふり返った牧野の目には、由利先生の冷たく笑ったすがたがのしかかるようにうつった。 [#改ページ] [#小見出し]  鉄仮面|遁走《とんそう》 「いや、これはどうも」  と、牧野慎蔵《まきのしんぞう》はドギマギしながら、 「じつは新聞で、妙子《たえこ》さんの容態《ようだい》がひどくお悪いように読んだものですからね。それでちょっとお見舞《みま》いにあがったんです」 「なるほど」  と、由利《ゆり》先生は浅黒い頬《ほお》に皮肉な微笑《びしよう》をきざみながら、 「それで、主人のるすちゅう、どろぼうみたいにこの部屋《へや》へしのびこんだというわけですか」 「いや、そういうわけではありません。そうおっしゃられると、なんともどうも、おことばの返しようもありませんが、一刻《いつこく》もはやく妙子さんのご容態をうかがいたかったからで……。あんたはご存知《ぞんじ》かどうかしらんが、わしはずっとまえに、金庫部屋のなかで、あやうく、殺されようとするところを、妙子さんのおかげで助かったことがあるもんですからな」  口は便利なものだ。牧野慎蔵はここで、由利先生の疑《うたが》いをまねいては一大事とばかり、必死になってまくしたてるのである。  由利先生ははたしてそれに、ごまかされたかどうかは疑問《ぎもん》だが、それでもいくらかうちとけたようすで、 「まあ、まあ、話はゆっくりうかがいましょう。しかしここは病室、お客さまのいらっしゃるところじゃありませんよ。むこうの応接室《おうせつしつ》へいって、いろいろとお話をききましょうか」 「あ、そうですか。いや、まことに失礼しました」  ようやく心がとけたらしい由利先生の話しぶりに、牧野慎蔵はホッとしたようにひたいの汗《あせ》をぬぐいながら、あたふたと病室を出ると、もとの応接室へとって返したが、それを見ると由利先生、いきなりベッドのそばへかけよって、妙子の肩《かた》にソッと手をかけた。  と、いまのいままで、すやすやと眠《ねむ》っているとばかり思われた妙子が、ふいにパッチリと目をひらくと、 「先生」  と、こごえでささやく。 「しっ」  と、それをおさえた由利先生、なにやら早口に妙子の耳にささやいていたが、相手がこくりこくりとうなずくのを見ると、 「いいですか。それじゃたのみましたよ」  と、こごえに念をおしておいて、やがて落ちつきはらった顔つきで応接室《おうせつしつ》へとやってくる。 「いや、お待たせしました。なにしろ助手を使いに出したものですから、お茶もさしあげられなくて、お気のどくです」 「いえ、どうぞおかまいなく。しかし、ご家族は助手の方とおふたりきりですか」 「いやもうひとり家政婦《かせいふ》がいるんですが、これも今朝ほどからあいにく外出中なので、いまのところ家のなかには病人とわたしのふたりきりですよ。ははははははは」  あの、由利先生はなんだってこんなことをいうのだろう。これはまるで、相手につけこむすきをあたえるようなものではないか。あんのじょう、それをきくと、牧野慎蔵の目がギロリと気味悪くひかったが、さりげないようすにたちもどった。 「いや、先生のようなご職業《しよくぎよう》のかたには、けっきょくそのほうがよいのかもしれませんな」  と、取ってつけたようなおせじをいいながら、なんとなく、部屋《へや》のなかを見まわしていたが、そのときふとかれの目についたのは、デスクのはしに投げ出してある太い棍棒《こんぼう》だ。太さといい、長さといい、にぎりぐあいといい、いかにも手ごろな武器《ぶき》。おまけに、さきに鉛《なまり》がつめてあるのまで、まったくおあつらえむきにできている。牧野はそれを見ると、思わずニヤリと笑ったが、それと知ってか知らずか由利先生、 「それではひとつ、ご用のおもむきをお聞きしましょうか、しかし、これではあまり失礼だな。おおそうそう、このあいだひとからもらったウイスキーがありましたっけ、あれでもさしあげましょうか」  立ち上がった由利先生、つかつかと部屋を横切ると、むこうむきになって、壁《かべ》ぎわにある西洋|戸棚《とだな》をひらいたが、そのときである。やにわに、先ほどの棍棒を手にとった牧野慎蔵、それこそ蛇《へび》のようなすばやさで、スルスル、由利先生のうしろにしのびよったかと思うと、いきなりガンとばかりするどい一撃《いちげき》をくらわせたからたまらない。あっともいわずに由利先生は、まるで泥人形《どろにんぎよう》がくずれるように、へなへなとその場にくずれてしまったのだ。 「ふふふふふ」  と、牧野慎蔵はそれを見ると、ニヤリときみわるい微笑《びしよう》をもらしながら、 「名探偵《めいたんてい》だなんていばってやがっても、ふいを打たれりゃもろいものさ」  と、棍棒を投げ出して、両手をこすりつつ、しばらくキッときき耳をたてていたが、やがて応接室をしのび出ると、やってきたのは妙子の病室。と、見るとちょうど妙子は、ベッドのそばに立って、いつのまにやら外出の身じたくをととのえているのだ。牧野は思わずギョッとしたが、 「おや、妙子さん、どちらへ行くのですか」 「あたし、あたし、ここを出ていきますの。だって、ここは、あまりおそろしいんですもの。この家は悪魔《あくま》の巣《す》ですわ。いいえ、いいえ、鉄仮面のすみかです。ああ、あなた、あたしを助けて、あたしを文代《ふみよ》さんに会わせて」  そういったかと思うと、ビーズで編《あ》んだハンドバッグをむちゃくちゃにかきむしりながら、ワッとばかりに泣きふすのだ。牧野は一しゅんの間、あわれむようにその様子をながめていたが、やがてニヤリと気味悪い笑いをもらした。  わかった、わかった。うちつづくおそろしさのために、妙子はついに気がくるったのだ。いや、発狂《はつきよう》しないまでも、一時的に気がくるったのだ。 「ふふふふふ」  と、牧野はいよいよ気味悪く笑いながら、 「それはまあ気のどくだ。おじょうさん、いや妙子さん、それじゃわたしといっしょにおいで。わたしがあんたをすくってやるからな」 「まあ、あたしをすくってくださるんですって。それじゃ、あたしをこの家からつれ出してくださるの」 「そうだ、そうだ。わたしといっしょにこの家を出ていくのだ。さあ、妙子さん」  と、牧野はさっそく妙子の手をつかむと、 「おとなしくわたしといっしょにくるんだ」  助手の帰ってこぬ間にと、いそがしく表へとび出した牧野は、待たせてあった個人《こじん》タクシーに、妙子のからだをおしこむと、 「運転手くん、さっきのところまでやってくれたまえ。ほら、羽田《はねだ》空港のすぐそばだ」 「へいへい、承知《しようち》しました」  と、大きなすす色の眼鏡《めがね》をかけた個人タクシーの運転手が、小声でそう答えたが、そのとき、牧野慎蔵がもうすこし注意してみたら、この運転手の様子に、どこかみょうなところがあるのに気がついたはずだった。    平和島《へいわじま》を過《す》ぎ羽田へ向かう高速道路を、個人タクシーはもうれつなスピードで疾走《しつそう》していく。妙子は車体がゆれるたびに、キャッキャッと子供《こども》のように喜んだり、そうかと思うと、きゅうに悲しげに、メソメソと泣きだしたり、しかもその間にビーズで編んだハンドバッグをズタズタに引きさいていた。 「だんな、だんな、ここを左へ行くんでしたっけね」 「右だよ。ばかやろう、きみはさっき通った道を忘《わす》れちまったのかい」 「すみません。だんな、なにしろこのへんときたら、やけに道がくねくねしていやがるんでね」  と、運転手はさもいまいましそうに舌打《したう》ちをしたが、それでも、空港の手前にある高速道路の出口を出て、二十分ほどのちにやっと目ざす建物まで個人《こじん》タクシーはたどりついた。  そこは羽田の空港からほど遠からぬ海岸近くの一軒家《いつけんや》。いや、家というよりも、倉庫といったほうがふさわしいような、荒《あ》れはてたバラック建てなのだ。 「やあ、ごくろう、ごくろう、ここでいいよ」 「おっと、そうでしたっけ」  個人タクシーをとめると、牧野はにわかにおじけづいて尻《しり》ごみする妙子の手を引っぱって、むりやりに倉庫のなかへ引きずりこんだ。  と、そのうしろすがたを見送った運転手、ニタリと気味悪い微笑《びしよう》をもらすと、わざとクラクションをうるさく鳴らしながら、ものの百メートルあまりも引き返したが、やがてピタリと車をとめると、ヨタヨタと運転席から地上におりたが、見ると、ああ、この個人タクシーの運転手は、片足《かたあし》に義足《ぎそく》をはめているのだ。  さて、こちらは倉庫のなか。そんなこととは夢《ゆめ》にも知らぬ牧野慎蔵が、妙子の手をとってグイグイと引きずりこんだのは、ガランとした薄暗《うすぐら》い一室だった。 「ほら、おまえの会いてえという文代は、そこにいらあ、ゆっくりとお目にかかりねえ」  ことばつきも荒《あら》あらしく、ドンとうしろから突《つ》きとばされた妙子は、ヨロヨロと部屋へふみこんだがそのとたん、 「ああ、文代さん」 「妙子さん」  と、呼《よ》びかえしたいところだろうが、かわいそうにぐるぐるとしばられ、さるぐつわをはめられた文代は声を出すことができないのだ。目に涙《なみだ》をいっぱい浮《う》かべて、身も世もなく、すすり泣きする、そのあわれさ。打ちつづく苦労《くろう》に、顔はやつれ、落ちくぼんだ両の目には、涙をためてこらえきれずに泣きふすのだ。 「文代さん、あいたかった。あいたかったわ。わたし、どんなにあなたのことを心配していたかしれないのよ。わたしたち、もう二度とはなれないわね。このまま死んでも、決してはなれないわね」  と、むちゅうになってすがりつく妙子を、いじわるくうしろに引きはなした牧野慎蔵。 「いっしょに死にたけりゃ殺してもやろう。しかし、いまはいけねえ。ちょいとおまえたちのからだに用事があるのだ。妙子さん、すまねえが、おまえちょいとそのうわぎをとっておくれ」 「ゆるして」  と、おびえて泣き叫《さけ》ぶ妙子のからだをいきなり抱《だ》きしめ、むりにそのうわぎをはぎとり、下着をぬがせる。と、見ると、その肌《はだ》にありありとのこっているのは、あの奇妙ないれずみなのだ。  文代の肌にあるいれずみと、たいへんよく似《に》た地図のいれずみなのだ。 「ふふふふふ、あったぞ、あったぞ」  と、牧野慎蔵はむちゅうになって、 「これだ、この地図だ。これと文代の肌にあるいれずみと、二|枚《まい》合わせれば大金鉱《だいきんこう》のありかがわかるんだ。妙子さん、くるしかろうがしばらくしんぼうしていておくれ」 「助けて。だれかきてえ」  と、妙子はむちゅうになって叫ぶのだが、なにしろところせまい一軒家《いつけんや》。しばられた文代が身をもがいてあせるのだが、どうすることもできない。牧野慎蔵はみるみるうちに、妙子のからだをしばりあげると、 「さあ、しばらくのしんぼうだ。ちょっとのあいだ静かにしていておくれ。なに、ちょっと写真をとらせてもらえばいいんだ。なにしろおまえたち生きた地図をモンゴルの奥地《おくち》までつれていくわけにはいかないからね」  と、牧野は手ばやく、妙子の人肌地図をカメラにおさめると、 「さあ、これですんだと。文代のやつはさきに撮影《さつえい》してあるから、こいつを焼きつけりゃ、万事おしまい。だが、待てよ」  と、牧野はきゅうにギロリと目をひからせると、 「おまえたちのいれずみを、このままにしておいて、ほかのやつに見られちゃなんにもならねえ、さてっと」——と、牧野はあたりを見まわしていたが、ふと目にうつったのは、かたわらに赤あかと燃《も》えあがっているストーブだ。ストーブのなかには、火かき棒《ぼう》がまっかに焼けて、ブスブスと白い煙《けむり》をあげている。それに目をやって、ニタリと微笑《びしよう》した牧野の顔は、悪鬼《あつき》よりもいっそうものすごかった。 「ははははは、いいことがあらあ。この焼きごてでおまえたちのそのいれずみを焼き消してしまうのだ。ははははは、こいつはいい」  ああなんというおそろしさ、なんというむごたらしさ。牧野はニタリニタリと笑いながら、まっかに焼けた火かき棒を取りあげると、猫《ねこ》のように、足音をしのばせ、一歩一歩、妙子のそばに近寄《ちかよ》ってくる。ああ、その顔のすさまじさ。妙子はシーンとからだじゅうの血がこおる思い。逃《に》げようにも手足をしばられているし、すくいを求めようにもこの一軒家。 「ああ、文代さん、文代さん」 「はははははは、文代かね。文代もいずれあとから、手術《しゆじゆつ》をしてやる。それより前に、妙子おまえのそのいれずみから……」  焼きごての先が、いまにも妙子の肌にふれようとした。が、そのとたん、ズドンと一発、銃声《じゆうせい》がとどろいたとみると、 「あッ」  と、叫《さけ》んで、牧野はおそろしい責《せ》め道具を取りおとしたが、そこへヌッとはいってきたのは、あの片足《かたあし》の個人《こじん》タクシーの運転手。 「おい、牧野、おまえもいいかげんだなァ」 「だ、だれだ、きさまはだれだ!」 「フフフ、おれだよ。東座蓉堂《ひがしざようどう》」  と、怪《かい》運転手は眼鏡《めがね》をとると、 「牧野、きさまにはわからねえのか。おれはこのあいだから浮浪者《ふろうしや》に化けて、妙子の身辺にアミを張っていたんだ。そうよ。いつか妙子のいれずみに引きずられて、おまえがすがたを現《あらわ》すだろうと、わざわざ妙子を警察《けいさつ》の手にかえしてやったのも、みんなおれのはかりごとさ。おい牧野、こんどこそ妙子と文代とふたりそろえて、おれはもらっていくぜ」  と、いったかと思うと、鉄仮面の東座蓉堂、牧野の心臓《しんぞう》めがけて、キッとねらいをさだめたのである。牧野は恐怖《きようふ》のために、思わずへなへなと床《ゆか》の上にへたばってしまった。    さて、こういうできごとのあいだ、由利先生はどうしていただろう。牧野慎蔵が妙子の手をひいて、そそくさと乗用車で立ち去ったあと、ふしぎ、ふしぎ、何もしらずに眠《ねむ》っているはずの由利先生が、ムクムクと床の上から起きあがった。  由利先生はニヤリと笑いながら、床の上に落ちている棍棒《こんぼう》を拾いあげると、ああ、なんという怪力、あの太い棍棒をぐいとばかりにふたつにヘシまげたのである。 「ははははは、さすがの悪党《あくとう》も、こいつがゴムでできているとは、気がつかなんだらしいな。いや、とんだおしばいだ」  と、つぶやきながら、片手《かたて》をはなすと、いったんヘシまげられた棍棒が、ふたたびピンともと通りになる。なあんだ、ゴムだったのか。それじゃだれだってヒンまげることができるはずだ。  由利先生はクックッと笑いながら、棍棒を投げ出すと机《つくえ》の上のボタンをおした。すると、だれもいないといった家のなかから、 「はい」  とへんじをして、やがてドアのそばにあらわれたのは、さっき牧野をみちびきいれたあの助手の少年である。 「進《すすむ》くん、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》くんに電話をかけておいてくれたかな」  なんと、この助手の少年というのは、ほかならぬ御子柴《みこしば》進なのだ。身よりのないみなしごの進はいまでは由利先生の家で、助手としてこの大探偵《だいたんてい》の手つだいをしているのだ。 「はい、さきほどおかけしておきました。まもなくおみえになるでしょう」  そのことばもおわらぬうちに、表で自動車がとまる音がすると、せかせかとした急ぎ足で、飛びこんできたのはほかならぬ三津木俊助。 「先生、妙子さんが誘拐《ゆうかい》されたというのは、ほ、ほんとうですか」 「ああ、ほんとうだよ」  と、由利先生は平然として笑っている。俊助は怒《いか》りながら、 「先生、いったい、なんということですか。先生がそばについていながら、妙子さんが誘拐されるなんて。せ、先生はこの失敗をいったいどうするつもりなんです」 「まあ、まあ、そうこうふんせずに静かにしていたまえ」 「静かにしろったって、これが静かにできますか。いったい、だれに誘拐されたのです」 「牧野慎蔵にだよ」 「ちくしょう! どうも変だと思った。あいつめ、さっき新聞社へ電話をかけてきて、妙子さんの肌《はだ》にみょうないれずみがあると新聞に出ていたが、あれはほんとうのことかって、しつこく聞いてやがったが、さてはあいつめ、どういうわけかしらんが、あのいれずみをねらっているんだな」 「どうもそうらしい」  と、由利先生は相かわらず平然として、ニヤニヤ笑っているのである。さすがの俊助もあきれかえった面もちで、 「どうもそうらしいって、先生、先生は牧野のやつが妙子さんを誘拐すると知っていて、だまって見のがしていたんですか」 「ああ、そうだよ。じつはあいつにわざわざ誘拐してもらったんだ」  これにはさすがの俊助もあいた口がふさがらなかったのもむりはない。 「先生、わざと誘拐してもらったなんて、そ、それはいったい、どういうわけなんです」 「三津木くん、きたまえ」  と、由利先生はきゅうに、キッと帽子《ぼうし》をつかんで立ち上がると、にわかにことばをあらため、 「進くん、きみもいっしょにきたまえ。これから牧野のあとを追っていくのだ。三津木くん、じつはね、牧野のやつがいったい何をたくらんでいるのか、それから文代さんをどこへかくしているのか、それを知りたかったものだから、妙子さんにたのんで、わざと誘拐されてもらったんだ。さあ、これから、あいつのあとを追っていくんだ」 「しかし、しかし」  と、あたふたと由利先生のあとを追いながら、 「牧野がどこへ逃げたか、どうしてわかるのですか」 「それはね、三津木くん」  と、さっそく玄関《げんかん》から外へふみ出した由利先生、しばらく道路上をあちこちと眺《なが》めていたが、ふいに目をすぼめると、 「あ、あれだ。三津木くん、あれを見たまえ」  ステッキの先でさされたところを見ると、これはどうしたというのだ。白いアスファルトの上には、点々としてビーズの玉が、まるで地上の虹《にじ》ででもあるかのように、青く、赤く、紫《むらさき》に、七色のひかりをはなちながら、バラまかれているのだ。 「これが妙子さんの目じるしなんだ。妙子さんはな、ハンドバッグをこわして、そのビーズをすこしずつ路上においていってくれたんだよ。こいつのあとをつけていけばいいのだ」  俊助と進をしたがえて、いましも由利先生が、俊助の乗ってきた自動車に乗りこもうとしたときである。ふいに道ばたのごみ箱のかげから、ふらふらと立ち上がってきた男がある。 「おや、あいつどうしたんでしょう」  と、俊助がステップに片足《かたあし》をかけたまま、思わずそうつぶやいたときである。その男はよっぱらいみたいな足どりで、ふらふらと道のまんなかまでくると、 「ああ、乗っていってしまいやがった。ちくしょう、おれの自動車を持っていってしまいやがった」  と、つぶやきながら、またもや頭をかかえて、ドシンと、かたわらの塀《へい》にたおれかかったのだ。見ると、個人《こじん》タクシーの運転手のような服装《ふくそう》をした男である。 「きみ、きみ」  と、俊助はそばへよって、 「どうしたのです。けんかでもしたんですか」  と、いぶかしそうにたずねた。 「けんかじゃねえんです。だんな、悪者がおれの自動車を持っていってしまいやがったのです」 「悪者、いったい、どんなやつだ。はっきりいいたまえ」 「わしはここまで、あるお客さんを送ってきたんです。そうそう、たしか、そのお客さんはこの家へはいっていきました」  と、由利先生の家を指さしながら、 「あっしゃその客のいいつけで、表でお待ちしていたんです。すると、すると——」  と、運転手は苦しげに息をつきながら、 「そのへんにいた片足の浮浪者《ふろうしや》が、いきなりあっしのそばへよってくると、煙草《たばこ》の火をかしてくれというんです。あっしゃきみがわるかったが、なんの気もなく火をかしてやっていると、そいつがふいにガンとひどい力であっしの頭をなぐりやがったんで。——ああ、痛《いた》い。まだ頭がズキズキしまさあ」 「そして、その片足の浮浪者はどうしたんだ」 「どうしたか知るもんですか。あっしはそのまま気が遠くなっちまったんですもの。しかし、いま見ると、あっしの自動車がありませんから、きっとそいつが、乗り逃げしやがったにちがいありません。だんな、だんな、そいつどっちへ行ったかご存知《ぞんじ》ありませんか」 「さあ、知らないね。しかし、その浮浪者というのはいったいどんなやつだね」 「そいつは片足がないかわりに、ゴムの義足《ぎそく》をはめているんです」 「あ!」と、それを聞くと、自動車のなかにいた由利先生は思わずまっさおになった。 「三津木くん、三津木くん、早く、自動車に乗りたまえ、早く、早く。鉄仮面のやつが、待ちぶせしたのだ。知らなんだ、知らなんだ。鉄仮面のやつが、牧野といっしょに、妙子さんもつれていってしまったのだ」  と、由利先生はいまさらのように、髪《かみ》の毛をかきむしりながら、じだんだふんでくやしがったが、手おくれだ。やがて自動車は、あの地上の虹《にじ》のあとを追って、まるで疾風《はやて》にのった悪魔《あくま》のように、走りはじめたのである。    ちょうどそのじぶんのことだ。  話かわって、こちらは羽田《はねだ》の空港である。その日羽田では、ちかごろ完成したばかりの、超性能《ちようせいのう》の小型民間飛行機の試験飛行がおこなわれていたのである。  おりからの微風《びふう》をついて、東京|湾《わん》の上空たかく、銀翼《ぎんよく》をかがやかせつつ、飛びたった飛行機が地上におりてくると、やがてひらりと操縦席《そうじゆうせき》からとびおりたのは、この大切な試験飛行の重任《じゆうにん》を負うテストパイロットである。 「やあ、すばらしいですな。じつにみごとです。機体といい、エンジンの性能といい、なんとももうしぶんありませんね。ぼくもいままで、ずいぶん試験飛行を試みましたが、こんな快適《かいてき》なやつにぶつかったのは、はじめてです」  さっきから地上で、この試験飛行の結果いかにと見まもっていた、製作《せいさく》会社の重役たちにとりかこまれたテストパイロットは、感激《かんげき》にほんのりと顔を紅潮《こうちよう》させていた。 「第一、このエンジンだと、ガソリンの食い方が、従来《じゆうらい》のエンジンの半分ぐらいですむだろうと思いますよ。今村《いまむら》くん、ちょっと貯油タンクを調べてみてください」  今村と呼ばれた機関士は、ガソリンメーターを調べていたが、 「こりゃあどうだ。あれだけ飛んでいながら、まるでガソリンがへっていませんよ。これだけあれば、まだ中国や東南アジアぐらい、自由に飛んでいけまさあ」  機関士がそんなことをどなりながら、飛行機からおり立ったときである。群集《ぐんしゆう》のなかから、じっとこちらを見つめている、ふたつの目に気がついて、かれはふいに、何かしらいやあな気がしたと、あとになっていうのである。  そいつは大きな黒眼鏡《くろめがね》をかけて、そして太い松葉杖《まつばづえ》をついていた。義足《ぎそく》でもはめているのか、歩くときにみょうにギチギチと音を立てるのである。見るとその足もとには大きな麻《あさ》の袋《ふくろ》がふたつころがっているのだが、気のせいか、それが人間のかたちをしているようで、機関士は思わず、ゾクリと背《せ》すじを冷たくしたことであった。  しかし、ほかの人びとはだれひとりその男の様子に気がついた者はなかったのだ。たとえ、気がついたとしても、やがて三十分ほどのちに出発することになっている旅客機を待っている客だろうと、そう大して気にもとめなかったのである。  やがて、テストパイロットを取り巻《ま》いた人びとは、口ぐちに、そのすばらしい成功を祝福しながら、はるかむこうに見える、ひかえ室のほうへ帰っていく。あとには今村機関士とあの黒眼鏡の男と、そしてふたつの麻袋だけがとりのこされた。と、このときである。ふいにあの黒眼鏡の男が、松葉杖《まつばづえ》をついて、ヨチヨチと機関士のそばにちかづいてきた。 「もしもし」  と、みょうにあたりをはばかるような声なのだ。  ただひとりあとにのこって、機体を点検《てんけん》していた今村機関士は、その声を聞くと、ふと頭をあげたが、いま、じぶんのうしろに立っている男の顔を見ると、ハッとしたように、なにかしら、身うちが冷たくなるのを感じた。 「何かご用ですか」 「あなたはおっしゃいましたね。この飛行機には、まだ中国や東南アジアぐらいなら平気でいけるガソリンがのこっていると」 「ええ、いいましたよ。お好みなら、もっと奥地《おくち》へでも飛んでいけますよ」  と、機関士はなんとなくいまいましげにつぶやいたが、それをきくと、義足《ぎそく》の怪人《かいじん》はニヤリと気味悪い微笑《びしよう》をもらしたが、急におどろいたように、 「おや、むこうに見えるのはなんでしょう」 「え、なんですか」 「ほら、あそこ、あの白いもの」 「どれ?——どこです?」  機関士がふとつりこまれてむこうを向いたときだ。やにわに松葉杖をふりあげたあの怪人が、全身の力をふりしぼって、そいつを機関士の頭上めがけて、打ちおろしたからたまらない。 「うわーッ」  と、ひと声、するどい叫《さけ》び声をあげると、くらくらと地上にたおれてしまったのである。 「おや、あの叫び声はなんだ」  いましもひかえ室で、祝杯《しゆくはい》をあげていたテストパイロットは、その声をききつけると、ハッとしたようにグラスをおいたが、そのときふいに、すさまじいプロペラの回転音が聞こえてきた。 「ああ」  おもわず顔色をかえた一同が、われがちにとひかえ室から外へとび出すと、ああ、これはいったいどうしたというのだ。いま試験飛行を終わったばかりの小型飛行機が、悪魔《あくま》のように大地を滑走《かつそう》しはじめたかと思うと、やがてフワリと羽田《はねだ》の空高く浮《う》かびあがっていたのである。  ああ、鉄仮面、東座蓉堂は小型飛行機をうばって、遠くモンゴル奥地まで、高とびをしようというのだ。行く先は、いうまでもなく、あの人肌《ひとはだ》地図に示された大金鉱《だいきんこう》。そして、あの二つの麻袋《あさぶくろ》のなかには、いうまでもなく、妙子と文代の人間地図がつめこまれているのである。  羽田の空港はたちまち上を下への大さわぎとなったが、それにしても由利先生や三津木俊助、さては御子柴進少年はいったいどうしているのだろう。    話はかわってこちらは三人。ちょうどそのとき、かれらは地上にビーズの玉でえがかれた七色の虹《にじ》のあとをたどりたどって、ようやく突《つ》きとめたのが、あの海岸近くの一軒家《いつけんや》だ。 「三津木くん、どうやらこの家らしいぜ」 「そうですね。ここでビーズがなくなっています」  思わずドキリとして、顔を見あわせたふたりの顔を見くらべながら、 「先生、ぼくがひとつ様子を探《さぐ》ってまいりましょうか」 「ふむ、そうしてくれたまえ。しかし、気をつけなきゃあぶないぜ。むこうはなかなか危険《きけん》なれんちゅうだからな」 「なあに、だいじょうぶです」  と、進は、犬のように草をかきわけて、家のまわりをグルリとまわって歩いたが、やがて帰ってくると、 「先生、どうも変です。家のなかにはだれもいないらしいですよ」 「よし!」  と、きっと唇《くちびる》をかみしめた三津木俊助、いきなりつかつかとドアのそばへ歩みよったが、意外、ドアには戸じまりがしてなかったとみえてなんなくひらくのだ。 「先生、ひとつなかを調べてみましょう。どうもなんだか変ですぜ。ひょっとすると——」  と、俊助は思わず声をふるわせながら、 「すでにおそすぎたのじゃありませんか」 「よし、はいってみよう」  三人はツカツカと、奥《おく》の部屋《へや》へふみこんだが、そのとたん、あっと叫《さけ》んで棒立《ぼうだ》ちになってしまったのだ。床《ゆか》の上にひとりの男がたおれている。みごとに心臓《しんぞう》を撃《う》ち抜《ぬ》かれて、まだかわききらぬ血がブスブスと噴《ふ》き出している。そのおそろしさ。悪人の最期《さいご》こそ、またあわれであった。 「牧野だ」 「鉄仮面がやったのだね」  と、由利先生は暗い顔つきでそのおそろしい死体から顔をそむけたが、そのときふと床の上に一|冊《さつ》の手帳が落ちているのに気がついて、それをひろいあげた由利先生、バラバラと二、三ページ走り読みしていたが、ふいにハッと顔色をかえると、 「三津木くん、こりゃ鉄仮面の日記だね。しかもいまから、かれこれ二十年もまえの日記だ」  と、由利先生がなおそのつづきを読もうとしたときだ。ふいに窓《まど》のそばに立った御子柴進が空をあおぎながら、けたたましい声で呼《よ》んだのだ。 「先生、先生、飛行機です」 「なんだ進くん、羽田にちかいのだから飛行機なんてめずらしくもないじゃないか」 「だって、だって、先生、あれをごらんなさい」  進の声に思わず窓べりによって空をあおいだ由利先生と三津木俊助、そのとたん、あっとばかりにまっさおになった。屋根をかすめてすれすれにとぶ小型飛行機から、そのときバラバラと降《ふ》ってきたのは七色の雨、あの妙子の道しるべのビーズなのだ。  ああ、妙子と文代を乗せた小型飛行機は空高く、モンゴルの奥地《おくち》めざして飛んで行く。 [#改ページ] [#小見出し]  虎狼巣窟《ころうそうくつ》  大悪人の鉄仮面《てつかめん》は、妙子《たえこ》、文代《ふみよ》の二少女をともなって、ついにモンゴルの奥地《おくち》へ飛んだ。あくまでも鉄仮面と勝負をつけようとする由利《ゆり》先生が、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》、御子柴進《みこしばすすむ》少年のふたりとともに、そのあとを追ったことはいまさらここにいうまでもあるまい。  あの広いひろいアジア大陸の奥地において、世にもおそろしい死の戦いがくりひろげられることになったのであるが、それを語るまえにわたくしはいちおう、由利先生があの羽田《はねだ》のかくれ家において発見した、鉄仮面の日記なるものについて、ここにお話しておかねばならない。この日記こそ復讐鬼《ふくしゆうき》、東座蓉堂《ひがしざようどう》が過去《かこ》において、いかなる苦しみをなめたか、それをくわしくものがたっているのである。    ——某日《ぼうじつ》、私《わたくし》は敦化《とんか》を去ること東方五十マイル、天宝山《てんぽうざん》付近の密林《みつりん》地帯において、張某《ちようぼう》なる一中国人を救助した。と、鉄仮面の日記はそういうふうにはじまっているのである。  ——当時、私は若かった。いや、私だけでなく、私の三人の同志《どうし》、唐沢雷太《からさわらいた》、香椎弁造《かしいべんぞう》、牧野慎蔵《まきのしんぞう》もみな若かった。われわれは目的をいだいて、中国奥地からモンゴルをさまようことすでに数年、東部国境のジャングル地帯に存在《そんざい》するという、大金鉱《だいきんこう》を夢見《ゆめみ》て、あてのない放浪《ほうろう》をつづけていたのである。  ——このめぐまれざる数年の放浪生活の結果、われわれはすっかりつかれていたのだ。ああ、いつになったら、われわれは目的の大金鉱を発見することができるのか。いやいや、はたして、そのような大金鉱が存在するのか。われわれは次第にやけになり、牧野慎蔵などは、たびたび、このむちゃな冒険《ぼうけん》を思いとどまるようにわれわれを説いたものだ。  ——しかし、ああ、ついにいまや、われわれは目的をとげる希望を見出すことができたのだ。天宝山付近のジャングル地帯において、ぐうぜんにあの張某なる一中国人より、すばらしい金鉱の存在を聞いたとき、私はどれほど喜んだことか。  ——だが、それを説くまえに、私はまず、その奇怪《きかい》なる一中国人を救助したときの、あの心にのこった思い出より書きしるしておかねばならぬ。  ——それは、大陸もようやく暖《あたた》かくなりだした四月のある日、鏡泊湖《きようはくこ》に流れ入る名もなき川のほとりにおいて、私は釣《つ》り糸をたれていたのである。ことわっておくが、私は釣りを試みたるも決して遊びのためではない。天宝山にキャンプすることすでに数か月、たくわえの食料品を使いはたしてわれわれは、めいめい自分で食料をあさらねばならなかったのだ。ほかの三人は、山へ猟《りよう》におもむいた。そして私ひとりがそこに釣り糸をたれていたのである。  ——と、そのとき私は、上流より、ふしぎなものが流れてくるのに気がついた。それはたしかに人間なのだ。しかし、波のまにまに浮《う》き沈《しず》みするその顔は、なんという奇怪さ。そいつはまゆも鼻もない、赤銅色《しやくどういろ》の顔をしているのだ。しかもしきりに、手足をもがきつつも、その赤銅色の顔は、表情《ひようじよう》ひとつ変えないのだ。  ——あまりのふしぎさに、私はぼんやりとしていたが、次のしゅんかんハッと気を取りなおすと、ザンブとばかり水にとびこみ、そのふしぎな人物を水中よりすくいあげた。そして私は、はじめて、その男が世にもふしぎなる鉄仮面を顔にはめていることを発見したのである。  ——ああ、私がふしぎな鉄仮面民族のひとりを見たのは、じつにこのときがさいしょだったのだ。そしてこの世にも非情な鉄仮面民族が、その後、いかなる重大関係を私の上にもたらしたか、神ならぬ身の私は夢《ゆめ》にもきづかなんだのだ。  ——それはさておき、そのとき救助した、この鉄仮面こそ、張某なることはいうまでもない。私の救助のかいもなく、かれはすでに瀕死《ひんし》だった。かれは私の親切をひどく感謝《かんしや》するとともに、ここにおどろくべき事実を私に打ちあけたのだ。  ——かれもまた、金鉱探検者《きんこうたんけんしや》のひとりだった。そして、じつにかれはその大金鉱のありかを発見したのだ。  ——かれは瀕死の手つきにて、ポケットより一|枚《まい》の地図を取り出した。そしておぼつかない舌《した》にてこういうのだ。  ——『大人《たいじん》よ、この地図をかたみにさしあげます。ここには大金鉱に行けるみちがくわしく書いてあります。行って、あのばくだいな富《とみ》を手に入れなさい。しかし、しかし大人よ、くれぐれもとちゅう気をつけなければいけませんぞ。そこにはおそろしい、鉄仮面民族が番をしている。そいつに捕《と》らえられたら最後、わたしと同じに生きては帰れないのです』  ——これは張某の最後のことばだった。まもなくかれは、私の腕《うで》にいだかれ、死んでいったのである。  ——この思いがけない告白に、私はうちょうてんとなった。ふってわいたこの幸運に私は夢ではないかと思った。私は天をあおぎ、感きわまってついに泣いた。しかし、すぐ気を取りなおすと、このよきしらせを一こくも早く仲間に知らせて喜ばせようと、むちゅうになってテントにいそいだのである。  ——ああ、私はなんというばか者だったろう。そのとき、たとえ不人情であろうとも、そのばくだいな富をひとりじめにすべきだったのだ。唐沢雷太、香椎弁造、牧野慎蔵、かれらにたいしてなんの人情がいろう。かれらこそ人間の皮をかむった、ごく悪人だったのだ。  ——それはさておき、私の物語を聞いたとき、かれらのおどろきと喜びはいかばかりであったろう。かれらは息をはずませ、欲《よく》ぶかそうな目をひからせ、むさぼるようにその地図を読んだ。そして、その翌朝《よくちよう》ただちに、われわれはその地図にしたがって、川を下り、鏡泊湖さして進んだのである。  ——旅すること数日、われわれは鏡泊湖のほとりにたどりついたが、そこで、はからずもあのおそろしい鉄仮面民族に出あったのだ。  ——むろん、世のなかに、こんなふしぎな人間がいるはずはない。それは、情《なさ》けを知らないむごたらしい人びとのあつまりで、団長《だんちよう》はモロゾフといい、世にもっとも兇悪《きようあく》なる人間。かれは、罪《つみ》ない民をさらってきてはそれに鉄仮面をかぶせ、家畜《かちく》の如《ごと》くくさりにつないで、さまざまな労働に使うのである。  ——ああ、私はこのモロゾフのとりことなった。しかも私をこのどれいに売ったのは、じつに、唐沢雷太をはじめとして、私のもっとも信頼《しんらい》したる三人の同志《どうし》なのだ。かれらは一夜、私の地図をうばい、私をモロゾフのどれいに売り、ひそかにそこを立《た》ち退《の》いたのだ。  ——それからのちの私のくるしみ、悲しみ、それはたとえようもないほどのものであった。私はたいせつな地図をうばわれたのみならず、自由をもうばわれたのだ。その後の私は人間にして人間ならず、生きながら鉄仮面をはめられた、地獄《じごく》の亡者《もうじや》も同様なのだ。  ——それにしても憎《にく》むべき唐沢雷太よ、香椎弁造よ、牧野慎蔵よ、私はかれらに対するはげしい憎しみと復讐心《ふくしゆうしん》に、毎晩《まいばん》、もだえくるしんだ。私はいつか、このおそろしき地獄の部落より逃《に》げだすことがあろう。そのときこそ、三人の悪党よ、なんじらに思い知らせるときであるのだ。    ああ、なんという奇怪《きかい》な事実、なんというおそろしい秘密《ひみつ》。鉄仮面の日記は、このように世にもすさまじい呪《のろ》いのことばをもってとじられているのであった。    はてしなき旅、はてしなき道のり、まっかな夕陽《ゆうひ》がいままさに、山のかなたに落ちようとするとともに、大陸の空気はにわかに寒さがくわわって、肌《はだ》もつんざかんばかり。  両がわには人跡未踏《じんせきみとう》のジャングルや、山脈が、いくえにもいくえにも重なって、そのなかをぬって流れる一条《いちじよう》の白河《はくが》。いましも現地《げんち》のロバにまたがって、この小暗い白河のほとりにたたずんでいるのは、いうまでもなく由利先生をはじめとして、三津木俊助、御子柴進少年の三人なのだ。  敦化をさること東方五十マイル、大陸の夕暮《ゆうぐ》れは、すでに夕陽がしずんでからも、なおいくすじもの日のひかりが、さわやかにこのせまい峡谷《きようこく》をとじこめている。 「先生、蓉堂のやつが張という鉄仮面の男をすくいあげたというのは、このへんではないでしょうか」  俊助は、ふとあのおそろしい日記を思い出して、身ぶるいをするようにそういった。 「そうかもしれない」  と、由利先生もそういいながら、さびしい谷間に目をやると、なんとなく感慨《かんがい》ぶかげな面もちなのだ。 「そうすると、妙子さんや、文代さんも、やっぱり、この道を通って、鉄仮面につれ去られたのですね」  と、こういったのは進である。 「そうだろう、とにかく、われわれは一歩一歩、目的の土地に近づきつつあるのだ。さあ、あとひと息だ。いそいでいこう」  三人はふたたびロバにひとむちくれると、もくもくとして歩きだした。この、なんともいいようのない荒《あ》れはてた夕暮れの風景。それに、くわえて、あの不幸な妙子、文代の二少女の身の上を思うと、ともすれば三人の胸《むね》は重くなる。この見知らぬ異国《いこく》のはてに、彼女《かのじよ》たちはいったい、どのようなくるしみをなめているのであろうか。  アメのような日光も、しだいにうすれて、あたりはいよいよ、大陸の夜につつまれていこうとする。  ——と、このときだ。先頭に立っていた由利先生が、とつじょ、ぐいと手づなを引きしめると、 「おや、あれはなんだ!」  と叫《さけ》んだとたん、三頭のロバがヒーンとばかりに棒立《ぼうだ》ちになったのである。 「しっ、しっ、先生、何ごとが起こったのです」 「三津木くん、きみには聞こえないのかね。あのけだものの声が……」  と、由利先生がどなったときである。  とつじょ、川下のほうから、びょうびょうたるけだもののほえる声、それにまじって聞こえるのは、キヌを裂《さ》くような人間の悲鳴だ。 「な、なんです、あれは。——」 「なんだか、わからない。だれかが狼《おおかみ》にでもおそわれているのかもしれない」  と、由利先生が、キッと腰《こし》のピストルに手をやったときである。ふいに対岸のほうから、ひとりの人間がおどり出してきた。そいつは両手を高くさしあげ、何やらむちゅうになってわめきちらしながら、しどろもどろにこちらのほうへ近づいてきたが、ふと三人のすがたをみとめると、ザンブとばかり川へおどりこんだ。 「だれだ、止まれ!」  と、聞きかじりのモンゴル語で叫ぶと、俊助はキッとピストルを身がまえたが、相手はそんなことばも耳にはいらばこそ、消えいるばかりの恐怖《きようふ》の叫び声をあげながら、ザブザブとこちらへ泳ぎ渡ってくると、このときだ。その男のうしろから、おどり出してきたのは、くさりにつながれた数|匹《ひき》の犬、いやいや、犬というよりも狼といったほうが正しい。  まるで子牛ほどもあろうかと思われる犬どもが、歯をかみならし、ハッハッと舌《した》をはきながら、これもまたザブンと水へとびこむと、さっきの男におそいかかっていくそのおそろしさ。  だが三人がおどろいたのはそればかりではない。いましも、犬どもがおどり出した草むらのむこうからカツカツとひづめの音が聞こえたかと思うと、みごとな栗毛《くりげ》の馬にまたがった男が、ヒュー、ヒューと長いムチを鳴らしながら、風のようにとび出してきたのである。 「ウオッ! ワッ! ヒュウ!」  その男は、何やらわけのわからぬことをどなりながら、むちゅうになってムチをふりまわしている。  むろん、日本人ではないが、そうかといって、モンゴル人でもない。がんじょうなからだをした大男。三十センチあまりの白いひげが、胸《むね》のあたりにうずを巻《ま》いて、雪のような頭髪《とうはつ》が、馬のたてがみのようにうしろにたなびいている。そのすがたは、さながら悪鬼《あつき》のようなものすごさ。  はじめのうち由利先生は、その男の叫《さけ》び声を聞くと、犬どもをとめているのであろうと思ったが、すぐにそれが思いちがいであることに気がついた。犬をとめるどころか、そいつは反対に、犬をけしかけているのである。 「ちくしょう」  同じく、それに気がついた三津木俊助。そうわかってみれば、もはや一こくも手をこまねくことはできない。ピストルの引き金に指をかけると、ズドンと一発。ねらいはあやまらず、あわや、あのかわいそうな男におどりかかろうとした一|匹《ぴき》の、脳天《のうてん》をつらぬいたからたまらない。さしもどうもうなやつも、水中からクルリ、およそ数メートルもとび上がったかと思うと、ドタリと水のなかに横だおしになった。  おどろいたのは馬上の男である。かれはいままで、あの残酷《ざんこく》な人間狩《にんげんが》りにむちゅうになっていたので、すこしもこちらに気がつかなかったのである。銃声《じゆうせい》を聞くと同時に、かれはギョッとしてこちらを見るとすぐムチを鳴らして犬どもをとどめはじめた。 「ウワッ! ルルルル! シッ! シッ!」  よほどうまくしつけてあるにちがいない。主人の一言を聞くと同時に、さしもいきり立った犬どももピタリ水中で攻撃《こうげき》をやめる。そのあいだに追われた男は、必死となって、こちらへ泳ぎ渡ってくる。と、おがむようにして由利先生の足にとりすがったが、その顔をひと目見たとき、由利先生をはじめとして、三人の者は、思わずあっと馬上で叫んだ。おどろいたのもむりではないのである。この男の顔には、見おぼえのあるあの赤銅色《しやくどういろ》の鉄仮面がはめられているではないか。 「鉄仮面民族だ」  そうだ。たしかに蓉堂の日記にあった、鉄仮面民族のひとりにちがいない。してみると、あの馬上の男は、兇悪無残《きようあくむざん》なモロゾフではなかろうか。 「よし、心配するな、われわれが助けてやる」  と、ひらりとロバから、とびおりた由利先生。うしろにその男をかばいながら、ピストルを片手《かたて》にキッとむこうを見ると、そのとき、馬上の男は白い歯を出してニヤニヤ笑いながら、敵意《てきい》のないことを示すように、両手を振《ふ》りつつ川を渡ってこちらへやってきた。 「きみはいったい、この男をどうしようというのだ」  と、相手がそばへ近寄《ちかよ》ってくるのを待って、抗議《こうぎ》すると、相手はちょっとおどろいたように顔をしかめたが、すぐ、 「やあ、きみたちは日本人ですね。これはめずらしい。このへんで日本人にあうなんて、いったい、何年ぶりのことだろう」 「そんなことはどうでもいい。それより、きみはいったい何者だ。そしてなんだって、あんな残酷《ざんこく》なまねをするのだ」 「おれかね、おれの名はモロゾフ。よくおぼえておいてもらおう」  はたせるかな、この悪魔《あくま》はモロゾフだったのだ。 「いいかね、わしはこのへんの支配者《しはいしや》なのだ。どれいたちに対して殺すも生かすもわしのかってだ。そこにいる男はおれのさだめたことにそむいた。だから、わしはそいつを死刑《しけい》にしなければならんのだ」 「ちくしょう!」  と、それを聞くと気の早い三津木俊助、歯ぎしりをしながらピストルを取りなおしたが、モロゾフもさすがにこれにはおどろいたらしい。色をうしなうとあわてて両手を振《ふ》りながら、 「いやいや、まあ待て。きみたちがぜひともその男をたすけろというなら、何もまあごちそうのかわりだ。助けてやろう」  と、モロゾフはムチを取りなおすと、キッと、あのあわれな鉄仮面のほうをふりかえり、 「朴《ぼく》! きさまは生命《いのち》みょうがなやつだ。この人たちがぜひともきさまを助けろとおっしゃるから、こんどだけはゆるしてやる。早く部落へ帰って任務《にんむ》につけ」  朴はそれを聞くと、いきなり大地にひれふして、由利先生から三津木俊助、さては進にいたるまで、いちいち地面に頭をすりつけて礼をいうと、やがてクルリと身をひるがえして、さっさと走りだした。 「ははははは、きゃつらときたら、まるで、虫けらみたいなもんですからな。ときに、きみたちはこれからいったい、どこへいきなさる」  と、モロゾフはいうと、長いまゆげの下から射《さ》すような目つきでジロリとふたりを見る。いやな目つきなのだ。 「そうだ、きみに聞けばわかるかもしれない」  と、由利先生はほかのふたりにめくばせをしながら、 「われわれは三人の日本人を探《さが》しているのだ。ひとりは男で、ほかのふたりはまだ若い少女だ。きみはこのへんで、そういう日本人を見かけなかったかね」 「さあて、さっきもいったとおり、このへんで日本人を見るのはじつにめずらしいことだからね。もし、やってきたのなら、わしの耳にはいらぬはずはないが……」 「それじゃ、知らんというのだね」 「うん、いっこうに——だが」  と、モロゾフはさぐるように三人の服装《ふくそう》をながめていたが、 「どうだ。きみたちは、どうせ今夜、どこかへ泊《と》まらなければならんのだろう。わしの館《やかた》へきたらどうかね。だれか、きみたちのたずねている日本人の消息を知っている者があるかもしれん」  由利先生はそれを聞くと、しばらく俊助と相談をしていたが、やがて相手のほうへ向きなおると、 「よろしい。それじゃひとつ、やっかいになることにしよう」  そこで三人は、モロゾフのあとについて、すでにとっぷりと日の暮《く》れた川ぞいに、その峡谷《きようこく》を進んでいったが、およそ、二マイルあまりも来たところである。むこうからドヤドヤとやってきた十数名の騎馬《きば》の一隊に出あった。それを見るとモロゾフは、 「おや、息子《むすこ》の小モロゾフが、わしの身を気づかって、迎《むか》えにきたらしい。なに、心配することはない」  かれはそういうと、馬の腹《はら》に拍車《はくしや》をあててそのほうへ走っていったが、やがて息子の小モロゾフというのを引きつれて帰ってきた。 「大人《たいじん》、これがわしのせがれの小モロゾフだ。日本人の大人がたにあいさつをせんか」  小モロゾフはそれを聞くと、ギョロリと目をひからせながら、礼をしたが、ああ、その顔つきのものすごさ。頭から左の頬《ほお》へかけておそろしい刀傷《かたなきず》、おまけにこいつ、野獣《やじゆう》にでもかみ切られたのか、右の耳が半分ないのだ。父親以上のそのすごい顔つき、たとえひと晩《ばん》とはいえ、こんな親子のところに身をよせなければならぬのかと、さすがの由利先生もなんとなく、不安な思いがしたが、それもこのさい、まことにむりならぬ話だった。    モロゾフの館《やかた》というのは、おそらく昔の教会か何かだったにちがいない。このモンゴルの奥地《おくち》にはめずらしい建物。しかしそれにもまして由利先生たちがおどろいたのは、そこに働いているあわれな人びとだ。かれらはみんな顔にあのおそろしい鉄仮面をはめられ、腰《こし》を太いくさりでつながれ、数名の白人のためにまるで牛馬のごとくこき使われているのだ。  若い俊助や進は、それを見ると思わずこぶしをにぎりしめたが、由利先生の目で知らせる注意によって、やっと胸《むね》をさすってがまんするのであった。  モロゾフはゴージャスな客間に三人をまねいて、こんな山奥とは思えぬほど、たくさんのごちそうをしながら、かわるがわる召《め》し使《つか》いを呼《よ》んで、三人の日本人のことを、ききただしたが、だれも知っている者はない。 「大人、どうやらきみたちの探《さが》している人びとは、まだこのへんに近よってはおらぬとみえる」 「いや、やむをえません」  と、由利先生はガッカリしたように答えたが、モロゾフはそれをみるとなぐさめるように、 「いや、まだまだ、失望するのは早いて。明日になったら、旅から帰ってくる者もある。そいつに聞けば、何か消息がわかるかもしれん。まあまあ、今夜はおつかれのようだから、ゆっくり休みなさい。せがれ、客人を寝室《しんしつ》へご案内したがよかろう」 「おお」  と、答えて小モロゾフ、ふくれづらをしたまま、 「客人、こちらへきなさい」  やがて三人が案内されたのは、二階の奥《おく》まった一室。おあつらえ向きにベッドも三つある。 「さあ、おやすみ、何か用があったらこの呼《よ》び鈴《りん》をおしてください」  小モロゾフは持ってきたロウソクをそこに置くと、クルリと一しゅうして、部屋《へや》から出ていったが、そのあとで思わず顔を見あわせた三人、 「先生、どうもこいつは油断《ゆだん》がなりませんぜ」 「フム、なかなかひとすじなわでいくやつじゃないよ。それにしても蓉堂のやつの消息がわからないのはよわった」 「変ですね。すでにこのへんへ来ていなければならないはずですが」 「まあしかたがない。明日になったら何か消息がわかるかもしれん。しかし、今夜のところは、ともかく寝《ね》ようじゃないか」  由利先生がロウソクを吹《ふ》き消そうとしたときだ。ふいに進が、アッと、かるい叫《さけ》び声をあげると、 「先生、気をつけなさい」と、いったかと思うと、いきなり床《ゆか》の上に身をふせたのである。そのとたん、一方の壁板《かべいた》がスルスルとひらくと、なかからムックと首を出したのは鉄仮面をかぶったひとりの男。 「おのれ!」  と、俊助が腰《こし》のピストルに手をやるのをみると、鉄仮面は、 「しっ!」と、じぶんの唇《くちびる》に手をあてて、 「わたしです。きょう、あぶないところを助けていただいた朴です」 「ああ、きみか」 「大人、あなたはこれに見おぼえがありますか」  と、ポケットを探《さぐ》ってつかみ出したのは、ああ、なんということだ。見おぼえのある妙子のあのビーズ玉ではないか。 「ああ、これは!」 「やっぱりそうでしたね。大人、モロゾフのいうことを信用してはなりません。おじょうさんがたは、今朝ここを出発したばかりです。しかし、いまは、そんな話をしている場合ではありません。早く、早くあの抜《ぬ》け道のなかにかくれなさい」と、いったかと思うと、鉄仮面の朴は、いきなり三つのベッドにとびかかると、クルクル毛布《もうふ》をまるめて、あたかもそこに三人が寝ているかのようなかっこうにしておき、さらに窓《まど》をひらくと、ぼうぜんとしてたたずんでいる三人を、あの壁のむこうの抜け道に追いこんだ。 「さあ、ここにかくれていればだいじょうぶです。この抜け道はさいきん、わたしがぐうぜんのできごとから発見したばかりで、ほかにだれも知っている者はありません。そのかわり、どんなことが起こっても、声をたててはなりませんぞ」  と、朴はぴったりと壁《かべ》のかくし戸をしめると、おし殺したような声でそういう。 「どうしたのだ。われわれがあそこに寝《ね》ていると、何か危険《きけん》なことでもあるのかね」 「そうです。あれをごらんなさい」  朴にいわれて、壁板のすきまから部屋《へや》のなかをのぞいた三人は、そのとき、思わず息をのみこんだ。  消し忘《わす》れたロウソクの灯に、ぼんやりと浮《う》かび上がっている三つのベッドの表が、いましもムクムクと動きだしたかと思うと、とつじょ、氷のようなするどい刃物《はもの》が数十本、逆《さか》さにニョッキリ生えたかとみるや、あっという間もない。ガタンとものすごい音を立てて、ベッドの上に落下したのだ。朴が丸めておいたあの毛布《もうふ》が、するどい刃物にいもざしとなったことはいうまでもない。 「あっ」  と、抜《ぬ》け穴にかくれた三人は、それを見ると、サッとほとばしるひや汗《あせ》をかんじたが、そのとたん、朴がいきなり、 「しっ!」  と、三人をおしとどめた。  そのとき、あわただしい足音が、廊下《ろうか》のほうから聞こえてきたのだ。ドアをひらいてはいってきたのは、いうまでもなくモロゾフ父子《おやこ》だ。  いもざしとなったベッドをみると、ふたりは顔見あわせてニヤリと笑ったが、その笑顔のおそろしさ。みると小モロゾフのほうは、手にキラキラとする抜《ぬ》き身をさげているのだ。  かれはつかつかとベッドのそばへよると、いちいちかくしボタンをおしてまわった。すると、いったん落ちたおおいは、ふたたびスルスルと上へあがってゆく、小モロゾフはそれをみると、手に持っていた抜き身を取りなおし、グサッと毛布の上から突《つ》き刺《さ》したが、そのとたんあっと顔色をかえると、あわてて毛布をひんめくる。  それからのちのふたりの狼狽《ろうばい》ぶりはいまさら、ここにお話するまでもあるまい。およそ人間とは思えないほど、ものすごい叫《さけ》び声をあげると、何やら口ぐちにつぶやきながら、そこらじゅうを探《さが》しまわっていたが、やがて、あのあけひろげた窓《まど》に目をつけると、暗い夜空を指さし、それからまっしぐらに部屋の外へとび出した。  わかった、わかった。朴がわざわざ窓をあけておいたのは、こうしてかれらの目をごまかすためだったのだ。  やがて、館《やかた》のさわぎが手にとるように聞こえてきた。人のののしりさわぐ声、猛犬《もうけん》の叫び声、馬のひづめのひびき。どうやらかれらは犬を先頭に、追跡《ついせき》のひぶたをきったらしい。しだいしだいに、そのさわぎは館から遠のいていった。 「もうだいじょうぶです」  と、朴はホッとしたようにため息をつく。 「ここへくるまえに、馬小屋から三頭の馬を追い出しておいたのです。かわいそうだが、馬の耳の穴《あな》にピストルの弾丸《たま》を一つずつ投げこんでおきましたから、馬は、そのガラガラという音に、くるったようになって、どこまでもどこまでも走って行くにちがいありません。そしてモロゾフたちはだまされたとも知らずに、そのあとを追跡《ついせき》していくのです」  ああ、なんという用意の周到《しゆうとう》さ、なんというぬけめのない男だろう。 「ありがとう、朴くん。われわれはきみのおかげで生命《いのち》びろいをしたのです。なんといって、お礼をもうしあげていいかわからない」 「いえいえ、きょう、大人《たいじん》たちにすくわれたことを思えば、こんなことはなんでもありません。すみませんが大人、ひとつこの仮面《かめん》をとってくださいませんか」 「おお、そうだった」  と、俊助はいきなりピストルを取りなおすと、うしろのほうにある錠に銃口《じゆうこう》をあてズドンと一発。そのとたんに、パッと錠が空中にとんだかと思うと、あの重い鉄仮面はドサリと床《ゆか》に落ちた。 「ありがとうございました。これさえなくなれば、百人力です。さあ、いまのあいだに、ここを立《た》ち退《の》きましょう」  そういう顔をみれば、年はおよそ俊助と同じくらいなのだろう。しかしその顔にきざまれた深いしわ、老人のように暗いひとみの色、それはこの鉄仮面|地獄《じごく》がいかにおそろしいものであったかを物語っているのだ。悪人の一味は、ぜんぶ追跡に出かけたとみえて、だれひとり、かれらをさえぎるものはない。 「さあ、この馬にお乗りください。あまり人の知らない抜《ぬ》け道がありますから、そのほうへご案内いたしましょう」  と、朴は三人を順に馬上へたすけ乗せると、じぶんは何を思ったのか、ふたたび館《やかた》のほうへ取ってかえしたが、まもなく引き返してきた。その顔をみると、顔じゅうに皮肉な微笑《びしよう》を浮《う》かべているのだ。 「朴くん、どうしたのだね」 「いや、なんでもありません」  と、朴はひらりと馬にとび乗ると、 「さあ、ご案内しましょう。おじょうさんがたがつれていかれた方向はだいたい、けんとうがついています」  ひとムチくれると、やがて四頭の馬は、月下の峡谷《きようこく》を疾風《はやて》のように走り出した。 「朴くん、朴くん、もう一度話してくれたまえ。ふたりの娘《むすめ》さんたちは元気だったかね」 「はい、ふたりともたいへん悲しそうでしたが、まだ希望をすててはいらっしゃいませんでした。あとからきっとじぶんたちをすくいにくる者があるから、その人にあったら、あのビーズ玉を見せてくれとおっしゃったのです」  ああ、けなげな妙子よ、かれんな文代よ。由利先生も三津木俊助も、さては進までが、その話を聞くと、思わず暗い気持ちになって、 「それにしても、蓉堂という男は、モロゾフと、どういう関係があるのだね。あいつもどれいだったのかね」 「そうです。あいつももとは、わたし同様、鉄仮面をかぶせられたどれいだったのですが、悪知恵《わるぢえ》にたけたやつで、しだいにモロゾフ父子《おやこ》にとり入り、一時|腹心《ふくしん》の部下になっていたのです」  だが、そのことばのおわらぬうちに、とつじょ、かれらのうしろにあたって、大地もゆるがさんばかりの大音響《だいおんきよう》が起こったかと思うと、パッとあたりは紅《くれない》にそめられた。おどろいて、ふりかえってみると、ああ見よ、あの悪魔《あくま》の本拠《ほんきよ》はいまや、炎々《えんえん》と天をこがして燃《も》えあがっているではないか。 「あ、あれはどうしたのだ」 「なんでもありませんよ」  と、朴は平然と微笑《びしよう》すると、 「出がけに、ダイナマイトを仕掛《しか》けておいたのです。あんなものはなにもかも、灰《はい》になってしまったほうが、神のおぼしめしにかなうのです。さあ、まいりましょう」  それから疾走《しつそう》すること数時間、ようやく東の空が明かるみかけたころ、かれらは小高い丘《おか》の上にある、とある泉《いずみ》のそばにたどりついた。 「さあ、ここまでくればだいじょうぶです。いちどここでひと休みしようじゃありませんか」  と、朴のことばに、ほかの三人も馬からとびおりると、泉のそばにはらばいになって水をのんだが、そのとき、ふいに、 「あ、あれはなんです」  と、朴が叫《さけ》んだ。 「なんだ、どうしたのだ、朴くん」 「においです。ああ、タールのにおいです」  と、朴はヒクヒクと鼻うごめかして、あたりの空気をかいでいたが、なにを思ったのか、馬のひづめをあげてみて、 「しまった——」  と、まっさおになって唇《くちびる》をかんだ。 「どうしたんだ。ひづめがどうかしたのかい」 「ごらんなさい。タールのにおいはここから出るんです。馬のひづめにタールが塗《ぬ》ってあるのです」 「それがどうしたというのだ」 「まだおわかりになりませんか。タールは犬の嗅覚《きゆうかく》をしげきします。タールのにおいはいつまでも抜《ぬ》けません。犬が——犬が——犬が」  朴が、そのことばをおわらぬうちに、とつじょ、びょうびょうたる犬の泣き声が聞こえたかと思うと、ああ、見よ、丘《おか》のふもとから十数|匹《ひき》の猛犬《もうけん》が、いや、犬というより、狼《おおかみ》なのだ、するどいまっ白な牙《きば》をかみならし、まっしぐらにこちらへ近づいてくるではないか。そしてうしろから、モロゾフ父子《おやこ》を先頭に、十五、六名の悪魔《あくま》の一味が、手に手に武器《ぶき》をふりながら馬をあやつって、真一文字に走ってくるのが見えたのである。 [#改ページ] [#小見出し]  大宝庫《だいほうこ》  由利《ゆり》先生をはじめとして、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》も、進《すすむ》も、そのしゅんかん、思わずサッと、まっさおになってしまった。  うすら寒い夜明けの大平原に、十数|匹《ひき》の猛犬《もうけん》を先頭に、手に手に武器《ぶき》をひらめかしつつ、走ってくるモロゾフ父子《おやこ》とその一味。それはさながら世にもおそろしい、一|枚《まい》の地獄絵巻《じごくえまき》そのものであった。 「みなさん、もうしわけありません」  と、朴《ぼく》は世にも悲痛《ひつう》な声をふりしぼり、 「わたしがおろかだったから、このようなはめに陥《おちい》ってしまったのです。ひづめに塗《ぬ》ってあるタールに気がついてさえいたら——」 「いやいや、朴くん、これはきみの過失《かしつ》でもなんでもない。われわれはただ、モロゾフの悪知恵《わるぢえ》に負けたのだ。あいつは日ごろから、鉄仮面民族が馬を盗《ぬす》んで逃亡《とうぼう》するのをおそれ、いつでも犬どもに追跡《ついせき》させることができるように、馬のひづめにタールを塗《ぬ》っておいたにちがいない。いまわれわれがそのわなに落ちたのも、なにかの因縁《いんねん》だ。だれも決して責《せ》めやせんよ」  と由利先生はやさしく、さとすように、朴青年にいったが、さて、キッと、俊助や進のほうにふりかえると、 「さて、きみたち、見られるとおりのありさまだ。逃《に》げようにも逃げ出すすべ[#「すべ」に傍点]のないことはわかっている。見たまえ、馬どもは犬の叫《さけ》び声が聞こえたときから、あのようにおそれおののいている。とてもものの役に立ちはしない。われわれはここにふみとどまって、あの悪魔《あくま》や猛犬どもと戦うよりすべ[#「すべ」に傍点]はないのだ」 「むろんですとも、先生」  と、若い俊助は、敵《てき》が多ければ多いほど、相手が兇暴《きようぼう》であればあるほど、その勇気はふるい立つのだ。かれは刻々《こくこく》とせまる悪魔の一群《いちぐん》を見ると、こうぜんとして、 「やっつけましょう。どうせいちどは捨《す》てねばならぬ生命《いのち》です。あの悪魔をひとりでも多くたおして死ぬことができたら本望ですよ。なあ、進くん」 「そうですとも、先生、ぼくはあの狼《おおかみ》のようなやつを二、三|匹《びき》やっつけます」  と進も頬《ほお》をりんごのようにそめ、ギリギリと奥歯をかみ鳴らしていた。 「よし、それを聞いてわしも安心した。それじゃみんな、できるだけはなれるな。そして最後まで希望をすてちゃいかんぞ。われわれはあくまで生きのびねばならん。生きて、鉄仮面と戦わねばならぬ重大使命が、まだわれわれに残されているのだ」  四人の者はそこで、ピタリと背《せ》なかを合わせてひとかたまりになった。悪魔《あくま》よ、くるならこい。かたっぱしからこのピストルの弾丸《だんがん》をおみまいもうすぞとばかり、キッと決意に燃《も》えた顔つきになったときである。先頭きってとんできた一|匹《ぴき》の猛犬《もうけん》、ウオーッとばかりに、牙《きば》かみならし、旋風《せんぷう》をまいて、おどりかかってきたしゅんかん、 「ダ、ダーン」  俊助のピストルからパッと白い煙《けむり》が立ちのぼったかと思うと、さしもの猛犬も脳天《のうてん》ふかくつらぬかれて、  ク、クーン。  悲鳴とともに、クルリと空中におどりあがると、そのまま、ドサリと地上にのびてしまった。 「そうら、みろ、一ちょうあがりというところですぜ。どうです、先生、わがはいの腕前《うでまえ》は」  この場におよんでも、余《よ》ゆうしゃくしゃく、俊助はからからとうち笑う。  だが、その笑い声もおわらぬうちに、あとからつづいた三匹の猛犬、ひとかたまりになってビューッと空中をとんでくる。 「撃《う》て」  と、由利先生の命令とともに、俊助、進、朴青年の三人が、同時にズドンと引き金をひいたが、残念ながら命中したのはただ一発。先頭に立ったやつは、もんどり打ってバッタリたおれたが、ほかの一発は肩《かた》をかすめてうしろにとんだ。さらに朴青年の放った一発は、かんぜんにねらいがはずれたからたまらない。銃声《じゆうせい》に狂《くる》いたった二匹の猛犬、いよいよ悪犬の形相《ぎようそう》ものすごく、血ぶるいをしながら、めちゃくちゃに四人の者を目がけておどりかかってくる。 「こんちくしょうッ」  ガーッと牙かみならしておどりかかってきたやつを、ようやくからだをかわした三津木俊助、胴《どう》のまんなかめがけて、ズドンと一発。 「そうら、これで三匹やっつけたぞ」  サーッととんだ犬の返り血をうけて、思わず身ぶるいをしながらそばを見ると、進がいまや一匹の犬と組みあったまま、マリのようにゴロゴロと大地をころげている。さらにむこうを見ると、由利先生と朴青年とが、おくればせにかけつけてきた犬を、めいめい二、三匹ずつ相手にしながら、必死となって戦っているのだ。 「三津木くん、三津木くん、進くんをたのんだぞ」 「ようし、引き受けた」  と、ばかり、飛鳥のごとく身をおどらせた三津木俊助、進のそばへとんでいくと、いきなり犬の脾腹《ひばら》をいやというほどけりあげる。 「キャ、キャーン」と、叫《さけ》んで、とびのくところを、進が下からダーンとぶっ放したからたまらない。さしもの猛犬《もうけん》もからだをもがいてぶったおれる。進がさらに脳天《のうてん》めがけてぶっ放そうとするのを、 「よしたまえ、進くん、このさいだ、一発でも弾丸《たま》をだいじにしろ」  と、叫《さけ》びながらもじっとしてはいない。すぐさま、朴青年のそばへ走りよるとみるや、パン、パンとつづけざまに二発。じつに俊助の射撃《しやげき》の腕《うで》のみごとさ、五発で五匹、かんぜんにうちとめたのだ。  だが、これが俊助のピストルのなかにこめられた最後の弾丸だった。まだ一発あると思っていたのが俊助の手ぬかり。おりから横なぐりにとんできたやつを、クルリむきなおって真正面から一発、食らわせようとしたが、しまった! カチリと引き金の音がして、弾丸が出ない。 「しまった」と、思ったがもうおそい。子牛ほどもあろうというやつが、剣《けん》のような牙《きば》をむいて、ガーッと俊助の肩《かた》にかみついたかと思うと、そのまま俊助は犬もろとも、もんどりうって大地にたおれてしまった。  こちらは由利先生、ようやく二匹の猛犬をしとめて、キッとばかりにむこうを見ると、進と朴青年のふたりが、たがいにピタリと背《せ》なかをくっつけたまま、数匹の犬をあいてに必死となって戦っている。さらにそのむこうには俊助が、もっとも大きなやつを相手に、いまや必死の格闘《かくとう》ちゅうだ。みれば俊助の肩からあごへかけて、それこそ紅《べに》をぬったようにまっかになっている。  丘《おか》のふもとには、そのときモロゾフ一味の者がひしひしとばかりおしよせている。しまった、あいつらがかけつけるまでに、この猛犬どもをかたづけなければならない。  由利先生は、すばやく弾丸をこめかえると、進の周囲にむらがっているやつを、つづけざまに二、三匹、ダ、ダーンとやっておいて、俊助のそばへよると、 「三津木くん、だいじょうぶか」 「だいじょうぶですとも、こんなやつ。そ、それより先生、そ、そこにぼくのピストルがあります。それに弾丸をこめてください」  この場におよんでもゆうゆうたるもの。由利先生はいわれたとおり、落ちていたピストルに弾丸をこめおわると、そのときだ。ガーッとばかりに上からのしかかってくる猛犬の上下のあごに両手をかけた三津木俊助、全身の力をふりしぼってクルリと地上に起きなおると、まるでぞうきんでも投げすてるように、クルクルクル、二、三度空中に振《ふ》りまわすと、えいとばかりにそばの岩角にたたきつけたから、これにはかねて俊助の怪力《かいりき》を知っている由利先生も、思わずあっと舌《した》をまいておどろいた。みると猛犬のあごから耳へかけて、十センチ近くもみごとに引き裂《さ》かれているのだ。 「三津木くんえらいことをするなあ」 「なあに、これしきのこと、なんでもありません。先生、それよりピストルをください」  流れる血潮《ちしお》をぬぐおうともせず、由利先生の手から自分のピストルをもぎとった三津木俊助、クルリとあたりを見まわしたが、このときすでに半数以上を失った猛犬《もうけん》ども、さすがにおじけをふるったのかしっぽをまいて遠巻《とおま》きにしたまま弱よわしい声でうなっているばかりだ。 「ああ、だれも怪我《けが》はありませんね。いったい、何|匹《びき》やっつけたのです。ヒイフウミイ、やったやった、十一匹やっつけましたね。それで残っているのは、たった五匹か、ゆかいゆかい」 「怪我はないって三津木くん、きみ自身はどうだ。だいぶ、肩先《かたさき》をやられているじゃないか」 「なあに、こんなもの、怪我のうちにゃはいりませんよ。さあ、これで犬のほうはやっつけたが、こんどはいよいよ人間の番だ。進くんも朴くんもゆだんするな」  またもやひとかたまりになって、四人がキッと身がまえたとき、ようやく丘《おか》の上にたどりついたのは、モロゾフ父子《おやこ》に一味の者、数えてみると相手は十三人である。  モロゾフはじぶんたちがかけつけるまえに、あらかた猛犬どもが料理をおわっているだろうと思ったのに、このありさまを見て、さすが兇悪《きようあく》な悪人も思わずびっくりしてしまった。  手にしたむちをビュービューと鳴らしながら、のこった犬どもをけしかけるが、おじけのついた猛犬どもは、いよいよしっぽをたれてしりごみするばかり。そのうちに子分の者が、さっき俊助に引き裂《さ》かれた犬の死体を見つけだしたから、たまらない。子分の者は、いっせいにワッと叫《さけ》んで、あとずさりする。 「だれだ、だれだ、この犬を引き裂いたのは」  と、モロゾフもあまりの怪力《かいりき》に、さすがにまっさおになって長いあごひげをふるわせた。 「ああ、その犬を引き裂いたのか、そりゃおれがやったのだ。ははははは、そんなことは、朝飯まえの仕事だぜ」  と、いいながら、そばにたおれている一匹の犬のあごに手をかけると、ふたたびこいつをバリバリと引き裂いて見せたから、子分の者はワッと叫んで五、六歩馬をあとへ返す。  悪人にかぎって迷信《めいしん》ぶかいものだ。人間わざとは思われない俊助のこの怪力に、かれらはおそらく人か魔《ま》かと、早くもおじけづいたにちがいない。  と、これを見るなり、ヒラリと馬からとびおりたのは小モロゾフ。無言のままツカツカとたおれている犬のそばに近よると、これまたそのあごに手をかけ、バリバリとこいつをふたつに引き裂くと、 「若僧《わかぞう》、前へ出ろ」 「なにを」 「一騎討《いつきう》ちだ。おれとお前とは男と男だ。武器《ぶき》をすてて素手《すで》で、他人をまじえずここで勝負を決するのだ」 「おもしろい」  由利先生がとめるのも聞かばこそ、血気にはやる俊助は、いきなり前へおどり出した。  小モロゾフは二メートル近くもある大男。俊助も日本人としては大きいほうだったが、相手の体格《たいかく》にくらべれば、とてもくらべものにはならない。  それに俊助はいま、猛犬の牙《きば》によって受けた肩の痛《いた》みがある。だれの目にも、ひけ目は感じられるのだが、売られたけんかにあとへひくような俊助ではない。俊助はやにわに前へおどり出すと、 「おい、小モロゾフ。おまえいったな。おれもおまえも男だと。ヘン、おれの男はわかっているが、きさまはそれでも男のつもりか」 「なにを」 「ゆうべ、からくりベッドでわれわれを暗殺しようとしたなあ、だれだっけな。あれが男のやることかい」 「なにを!」  と、火のごとくいきどおった小モロゾフが、持った剣《けん》を投げすてて、やにわにガーッとおどりかかってくるのを、ひらりとかわした俊助が、その腰《こし》に手をやると、目にもとまらぬ岩石落とし、地ひびきたてて、小モロゾフのからだは大地にたたきつけられた。  これが俊助の手なのだ。相手をおこらせて、そのそなえのかたまらぬすきにつけ入ろうという俊助の作戦がみごと成功したのだ。しかし相手もさるものだ。痛さをこらえて、ムクリ起きなおると、いきなり俊助の首に両手をかけた。仁王《におう》さまのような両手がぐいぐいと俊助の首をしめつける。俊助の顔はみるみる赤みをおびて、血管《けつかん》がみみずのようにはれてくる。  危《あぶ》ない! 危ない! このままほうっておけば、いまにも俊助は息がつまってしまうだろうと、見ているほうでは気が気でない。だが、このしゅんかん、ええい、俊助の声があたりの空気をつらぬいたとおもうと、小モロゾフのからだはもんどりうって大地をはっていた。すかさずその上に馬乗りになった三津木俊助。こんどは俊助の手がグイグイと小モロゾフの首をしめるのだ。小モロゾフはしばらく、ふみつぶされた蛙《かえる》のように、手足をバタバタもがいていたが、そのとき、進がアッと叫《さけ》び声をあげた。 「先生、気をつけて。相手は短刀を持っていますぞ」  そのことばもおわらぬうちに、かくし持った短刀を抜《ぬ》きはらった小モロゾフが、ひきょうにも、いやというほど、俊助の腹《はら》をえぐったからたまらない。俊助は血に染《そ》まってその場にたおれたか——と、みえたがそうではない。危ないところで、進の注意が役に立ったのだ。ヒラリとうしろにとびのいた三津木俊助、相手のひきょうにまっかになって怒《いか》り、むこうがむこうならこっちもこっちとばかり、そばにあった大きな石を、とっさにつかむと、目よりも高くさしあげて、ええいとばかりに小モロゾフの脳天《のうてん》めがけてたたきつけたからたまらない。 「ウオーッ!」  と、それこそ野獣《やじゆう》のような声だった。脳天を打ちくだかれた小モロゾフは、それきり手足をふるわせてつぶれてしまったのである。  いままで馬上からこの様子をながめていた大モロゾフは、息子《むすこ》の最期《さいご》を見るやいなや、 「おのれ!」  と、腰なるピストルを抜くても見せず、俊助に向かってねらいさだめたが、そのとき、世にも思いがけないことが起こったのである。  いままで血みどろな一騎討《いつきう》ちに気をとられて、だれひとり気づく者はなかったが、いつの間にやら、ズラリとモロゾフ一味の者を取りかこんだのは、めいめい、鉄仮面を顔にはめられた、あのモロゾフのどれいどもではないか。  わかった、わかった。ゆうべ、朴青年の仕掛《しか》けたダイナマイトの爆発《ばくはつ》によって、思いもかけず、その牢獄《ろうごく》の入り口を破壊《はかい》された鉄仮面のどれいたちは、いまこそ復讐《ふくしゆう》のチャンス到来《とうらい》とばかりに、てんでに武器《ぶき》をたずさえて、ここまでモロゾフ一味の者を追跡《ついせき》してきたのである。 「助かりました。みなさん、われわれはすくわれました」  と、それと見るなり朴青年は、思わず大地に身をたたきつけて泣きだしたのである。    このようにして、あれほど兇悪《きようあく》なモロゾフ父子《おやこ》も、長いあいだ使われたかれらのどれいのために、逆《ぎやく》にとりこになってしまった。そして、おそらくあのおそろしい鉄仮面民族は、永久《えいきゆう》にモンゴルの奥地《おくち》からすがたを消すことだろう。しかし、由利先生の使命はそれで終わったわけではない。モロゾフ父子などは、むしろ由利先生の一行にとっては副産物にすぎないのだ。かれらにはさらに重大な使命が残されている。鉄仮面をたおし、妙子《たえこ》、文代《ふみよ》の二少女を救い出さねばならぬという、世にも重大な仕事なのだ。  さて、それから二日ほどのちの朝早く、天宝山《てんぽうざん》のはるか北方、鏡泊湖《きようはくこ》のほとりにたどりついた三人の日本人がある。いうまでもなく、これは由利先生をはじめとして、俊助、進少年の三人なのだ。あれから朴青年に別れを告げた三人は、地図をたよりにようやくここまでたどりついたのである。 「三津木くん、鉄仮面はどうやらこの湖水をむこうへわたったらしいぜ」 「よろしい。われわれもわたってみようじゃありませんか」 「しかし、この湖水をわたることは、取りもなおさず死を意味するのだということを、きみは覚悟《かくご》しているかね。さっきむこうの部落でも聞いたとおり、この湖水をわたった者で、いままで、ひとりだって生きてかえった者はないという話だ。この湖水には、大きなうずが巻《ま》いていて、それが人といわず、舟《ふね》といわずのみつくさずにはおかぬのだ」 「もとより死は覚悟のまえです。鉄仮面がわたったものなら、われわれもこれをわたらねばなりません。なあ、進くん、きみだってしりごみするようなことはないだろうな」 「むろんですとも、先生」  と、進もきっと唇《くちびる》をかみしめた。  湖水のはしに立って見わたすと、広いそしてさびしい湖の上からは、湯げのごとくこい霧《きり》が立ちのぼった。まわりにそびえる屏風《びようぶ》のようにけわしい山々は、まるで悪魔《あくま》のすみ絵のように、世にもおそろしい影《かげ》を、水の上に落としている。死のような静けさだ。木も草もことごとく枯《か》れはてて、鳥さえもこのほとりにはすまぬかのように見える。地獄《じごく》のようなその静けさのなかから、ゴーッと地ひびき立てて聞こえるのは、これぞ、土地の者たちがおそれるうず巻《ま》きの音であろう。 「よし、きみたちにその決心があるなら、一か八かだ、ひとつ舟《ふね》をこぎ出してみよう」  やがて、三人は、どこから見つけてきたのか、小舟をあやつって、湖水のむこう岸めざしてこぎ出していた。湖水といっても、どこにもあるようなそんなちっぽけなものではない。すべてが大陸的なこのモンゴル奥地《おくち》のこと、名は湖でも、大きさは海ほどあるのだ。しかも、そのなかに舟を乗り入れると、たちまちまわりをつつんだのは、あの霧《きり》のようなものだ。こい、ネットリとしたその悪気流は、さながら毒ガスのように人を窒息《ちつそく》させ、壁《かべ》のように目の前をさえぎってしまう。 「なるほど、この霧のために、だれでもゆくえを見うしなってしまうのだね」  と、由利先生はそういったが、ほかのふたりはなんとも答えない。はてしないこの冒険《ぼうけん》のため、さすがの俊助も進も、しだいに気がめいってくる。人間が相手なら、たとえどのような悪党《あくとう》であってもおそれないが、相手が自然だけに、だれもかれもいいあわしたように気が重くなってくる。 「先生、いったいもうどのくらい沖《おき》へ出ているのでしょう」 「そう、あいにくこの霧でよくわからぬが、さっきから五、六時間たつから、よほど沖へ出ているはずだ。いや、もうそろそろ、むこうの岸へつかねばならぬはずだがな」  いいもおわらず由利先生は、思わずアッとこごえで叫《さけ》んだ。 「ど、どうしたのですか、先生」 「うずだ、うずへ巻きこまれたのだ」  叫んだとたん、にわかに舟はグルグルと水の上で輪をえがきはじめた。これを抜《ぬ》けだそうとして必死となってかいをあやつっていた三津木俊助。 「しまった!」  と、叫んだがもうおそい。はげしいうずのいきおいに、かいがポキッとふたつに折れてしまったのだ。 「先生、こうなればしかたがありません。じたばたさわげば舟がひっくりかえるばかりです。なりゆきにまかせましょう」 「ふむ、それよりほかにしかたがないな」  三人はそれきり口をつぐんでしまったが、グルグルと輪をえがいた舟は、しだいに静止してきたかと思うと、こんどは強いいきおいでグングンと流されてゆく。 「はてな、この湖水にはひとつの流れがあるらしいな」 「そうらしいですね。こうなりゃしかたがありません。いったいどこへ流れていくか、ひとつこの流れに乗っていこうじゃありませんか」  舟は引き潮《しお》のようなはげしい流れに乗った。グイグイと流されていたが、おどろいたことには、その目前の霧のなかから、とつじょ、屏風《びようぶ》のようなけわしい崖《がけ》があらわれたかと思うと、見る見る、矢のようないきおいでこちらへせまってくる。あわや、しょうとつ! 三人がアッとばかりに首をすくめたときである。舟《ふね》はツツーとまっ暗な洞窟《どうくつ》のなかに吸《す》いこまれていった。 「わかった!」  と、由利先生が叫《さけ》んだ。 「流れはこの洞窟から地底をつらぬいて、またどこかへ流れだしているのだ」  しかし、洞窟はじつに長かった。一時間たっても、二時間たってもあたりは一メートル先も見えない暗黒の闇《やみ》、しかも舟はものすごいいきおいでドンドンと流れているのである。ああ、その心ぼそさ。きみわるさ。  やがて流れもしだいにゆるやかになってきた。そしていままで息がつまりそうだった空気がどうやらおだやかに、豊富《ほうふ》になってくる。洞窟が広くなってきたしょうこである。 「先生、ひとつマッチをつけてみましょうか」 「ふむ、つけてみたまえ」  俊助がすぐさま、マッチをすってみると、舟はいま洞窟の壁《かべ》とすれすれに走っているところだった。水の流れはいよいよゆるやかになって、あたりははかりしれない広い暗闇がひろがっている。そのとき、何やらそばでガサガサという音がするので、ふと壁のほうへ目をやった進は、とつぜんアッとばかりに叫び声をあげた。 「ど、どうしたのだ、進くん」 「カニです。ごらんなさい。黄金《おうごん》のカニがはっています」  見るとなるほど、壁の上には、無数のカニがゴソゴソとはいまわっているのだが、そのこうらを見ると、どれもこれも金色にかがやきわたっている。手をのばして、ふとその一|匹《ぴき》を捕《と》らえた俊助。 「先生、こりゃ何ももとから金色をしているのじゃありません。ごらんなさい、こうらからあしから一面に砂金がこびりついているのです」  由利先生はそれを聞くと、思わずギョッと息をのみこんだ。鉄仮面の探《さが》している大金鉱《だいきんこう》というのは夢《ゆめ》物語ではなかったのだ。カニのこうらにこびりつくほどの砂金、その大宝庫《だいほうこ》が、いまやかれらのすぐ目と鼻の先にせまっているのである。  ああ、だれがこのような風景を空想したものがあろうか。大地といわずまわりの崖《がけ》といわず、これはすべて砂金。砂も金だ。川の流れも金だ。黄金の虹《にじ》。岩間をはいまわる黄金のカニ。  いままでだれがこのようなすばらしい、ことばで説明できないような黄金を想像《そうぞう》した者があるだろうか。しかもこれは夢でもなければまぼろしでもない。現《げん》に、鉄仮面はこのすばらしい黄金の洞窟《どうくつ》にうっとりとして立っているのだ。その左右には妙子と文代とのふたりがこれまた魂《たましい》をぬかれたように、ぼうぜんとして目をつむっていた。  由利先生たちが吸いこまれた、あの洞窟の奥《おく》なのである。とつぜん、洞窟を出ると、そこにはおよそ周囲一マイルばかりの池があり、そしてその中央に、この黄金の小島が浮《う》いているのだ。池のまわりはすべて、きり立てたような岩石が、それこそ屏風《びようぶ》のようにそびえているのだから、いままでだれひとりこの黄金境《おうごんきよう》に気づかなかったのもむりはない。この小島へいたる道はただ一つ、あのおそろしい湖をこえ、あのまっ暗な地底の洞窟をくぐってくるよりほかに方法はなかったのだ。太陽がこのすりばちの底のような、小島の上にさしかかると、キラキラする黄金の虹《にじ》は空にかがやく。しかし、無智《むち》なこの近くの住民たちは、だれひとりそれによって、この黄金|大宝庫《だいほうこ》の秘密《ひみつ》に気づく者はなかった。むしろかれらは、それをもって悪魔《あくま》のしわざとおそれおののいていたのだ。  秘密を知っていたのは、いままで、天下にただふたり、唐沢雷太《からさわらいた》と香椎弁造《かしいべんぞう》だけである。おそらくかれらは、おりおりその大宝庫をおとずれては、ひそかに必要なだけの金塊《きんかい》を持ち帰っていたものだろう。  しかし、そのふたりもいまやこの世にいない人間だ。そして、全世界に例のないこの宝庫は、じつに鉄仮面|東座蓉堂《ひがしざようどう》がひとりじめにすることができるのだ。  蓉堂がくるったように喜んだのもむりはない。かれは涙《なみだ》をながして狂喜《きようき》した。じだんだをふみ、指をポキポキと折り、それこそ天をあおぎ、地にころびつつこの幸運を喜ぶのだ。 「見ろ、妙子も文代も見ろ。いまこそおれは天下の大金持ちだ。だれが、おれとこのすばらしい富《とみ》を競争することができよう」  と、蓉堂はまるでよだれを流さんばかりに喜び、やがてかれの目はふと、かたわらにそびえている奇怪《きかい》な黄金の立像《りつぞう》にそそがれた。それはおそらく、ずっと昔に、この大宝庫を所有していた先住民族がこしらえたものにちがいない。大きさは人間の三倍もあった。そして、ぜんたいが黄金からなる、半裸体《はんらたい》の悪魔とも神ともつかぬ奇怪な立像なのだ。顔は不動明王に似《に》ている。手が六本あって、それぞれ奇妙《きみよう》な武器《ぶき》をもっているのだ。そして胸《むね》のあたりには、呪文《じゆもん》のような文字が書きつけてあった。それはほとんどすりへっているうえに、古代のことばなのでよくわからなかったが、蓉堂が読んでみたところによると、だいたい次のような意味だ。 [#ここから1字下げ] ——われにふたりのいけにえをささげよ。しかるのちわが右の乳房《ちぶさ》をおせ、しからばより大いなる幸運、汝《なんじ》の上に下らん—— [#ここで字下げ終わり]  蓉堂はギョッとしたように妙子と文代のほうを見る。幸いここにふたりの女がいる。そうだ、こいつをいけにえにささげ、これ以上の幸運を手に入れねばならぬ。欲《よく》の深い鉄仮面は、いまや、なかば気が狂《くる》っていたのだ。かれはやにわにスラリと腰《こし》から短刀を抜《ぬ》きはなった。 「あれ、文代さん、気をつけて」  とつじょ変わった鉄仮面の顔つきに、まず第一に気がついて叫《さけ》んだのは妙子だ。いきなり文代の手をとって逃《に》げ出そうとした。 「おのれ、逃がすものか」  と、蓉堂はまるでイナゴのように妙子のうしろに近づくと、かみの毛をひっつかんでうしろへ引きもどそうとする。 「たすけてえ!」  と、叫《さけ》んだ文代が、いきなり砂金をつかんでとっさの目つぶし、 「妙子さん、逃げましょう、早く逃げましょう」 「うむ! 逃げようたって逃がすものか」  ああ、なんということだ。人もうらやむ黄金《おうごん》の洞窟《どうくつ》で、これこそ、地獄《じごく》の鬼《おに》ごっこがはじまったのである。  妙子と文代は手に手をとって、黄金の砂をけって逃げて歩く。そのうしろより狂《くる》いたった蓉堂が、短刀片手に追ってくるのだ。なんとかしてふたりを殺さねばならぬ。黄金の立像《りつぞう》がしめすとおり、ふたりのぎせい者をささげねば、幸運はわが手にはいらぬのだ。——狂った蓉堂の頭は、あのばかげたことをまったく信じているのだからたまらない。必死となって逃げまわる二少女のあとを、悪鬼《あつき》のように追いまわるのだ。妙子と文代は死に物狂いで逃げまわったが、もとよりせまい小島のこと、ふたりはふたたびあの立像のそばまで帰ってきたが、そのとき、ようやく追いついた蓉堂が、文代のからだを抱《だ》きかかえ、あわや一さし、その胸《むね》をえぐろうとしたときである。  ズドン! 黄金境《おうごんきよう》にものすごい銃声《じゆうせい》がとどろいたかと思うと、蓉堂は手にした刃物《はもの》を、バッタリそこに取り落としてしまった。 「ああ!」  三人の者がいっせいに銃声のした方角を見たときである。いましもむこうの洞窟から矢のようにこちらへ流れよってくる舟《ふね》、乗っているのはいわずとしれた由利先生の一行だ。 「あ、先生、早く、早く!」  それと見るより妙子は狂喜《きようき》して叫んだが、おどろいたのは蓉堂である。まさか、由利先生たちが、このようなところまであとを追ってこようとは夢《ゆめ》にも思わぬ。  しばらく、ぼうぜんとしてつっ立っていたが、どう思ったのか、クルリとふり返ると、いきなり黄金像の右の乳房《ちぶさ》をおした。ああ、蓉堂はあの呪文《じゆもん》を信じ、なにかしら奇跡的《きせきてき》な救いの手を信じて、その乳房をおしたのだ。  だが、そのとたん、世にも奇怪《きかい》なことがおこった。蓉堂が乳房をおすと同時に、ガーッと、ものすごい音を立てて、立像の六本の腕《うで》が、おりてきたかと思うと、はっしとばかり、蓉堂の脳天《のうてん》を打ったからたまらない。 「ウアーッ」  ものすごい叫びが、この黄金境の空気をつらぬいたかと思うと、さしもの悪事を重ねた鉄仮面も、あたりの砂金を深紅《しんく》の色にいろどって、そのままバッタリとたおれてしまったものである。 「妙子さん」 「文代さん」  ふたりはひしとばかりに抱《だ》きあったが、そのとき、由利先生たちを乗せた舟は、ようやく、小島までこぎつけていた。 本書は、昭和五十六年九月に刊行された角川文庫版の再録による新装版です。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『幽霊鉄仮面』平成7年12月1日初版発行